BFCの中にある物語の和訳が知りたいのですが……
少し極端な言い方になってしまいますが、英語、というか、外国語全般に関する一番大きな誤解が「翻訳」という概念だと思います。なぜなら本来、完全な「和訳」というものはあり得ません。
どうしても中学の時に長文読解などで最後に「正解」の和訳があるということが習慣になってしまっているため、多くの日本人はまるで答え合わせのように和訳を探す癖がついています。しかし、本の読み方に唯一無二の「正解」など間違ってもありません。
どうか一瞬、冷静に考えてみて下さい。
まるで違う文化と環境の中で書かれた本に登場するすべての単語に、ちょうどうまく訳せる日本語が本当にうまい具合にあるものでしょうか?
仮に相当する単語があったとしても、その単語が持つイメージや感覚が二つの国でまったく同じものである確率というのはどれほどあるのでしょうか?
インディージョーンズが探している大事なものが「聖櫃」だと言われてぴんと来ましたか? もちを「rice cakes」と訳されて、アメリカの人に「まずそうだ」と言われることに憤りを感じませんか? seaweed soup(海の雑草汁)と言われて出されたスープと、「わかめのみそ汁」と言われて出された食べ物を同じものと感じられますか? お稲荷様は本当に「fox god」なのでしょうか?
ものすごく身近な単語を考えてみても、「訳」というのがどれほど難しく、おおざっぱなものかがすぐ分かります。例えば「勉強する」という単語を英語に翻訳するとしたら、何をあてはめるのが「正しい」でしょうか。大抵の教科書に寄れば、訳語は「study」になっています。しかし、studyは本当に「勉強する」という意味なのでしょうか。「研究する」「観察する」なども訳すとstudyになってしまいますが、日本の「勉強する」という単語にこれらの要素は入っているでしょうか? 英語圏ではこの三つの行動はほぼ同等のものと考えられているのでひとつの単語で表すことが可能です。しかし、小学生などがいっしょうけんめい宿題をやることも日本では立派に「勉強している」ことになりますが、アメリカでは「work hard」とよく表現されます。直訳するなら「いっしょうけんめい働く」ですが、算数のドリルをやっている子供をそう表現することはまず日本では考えられないと思います。
このように単語は訳すとき、「概ね近い単語」を使っているだけです。合っているのは中心部分のみで、その単語の意味の外周部に含まれている細かい意味はほとんどの場合、大きく異なっています。図で書くと、こんな感じになるでしょうか。
俗に正解だと考えられている和訳も、単に誰かが拡大解釈し、アレンジを加え、自分の感覚に書き直した文であって、間違っても「正解」ではありません。和訳は「近い別バージョン」です。同じものではありません。訳す人が違えば、内容が大きく変わることもあります。英語を読むための「手がかり」として訳文を読むのはひとつの有効な手段です。でも、それ以外の訳が「間違い」ではありません。
どんな言葉にも、どんな物語にも決して正解など存在しないはずです。読書は合格制でも点数制でもないのですから、何カ所か間違っていてもいいじゃないですか。BFCの物語もそんなふうにして楽しんでみて下さい。
|