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本日のワンパラ(2013/9/22)「知らない町」

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「知らない町」

 二十数年前。
 初めての一人暮らしのために東京駅に着いたぼくは、着替えだけが入ったボストンバッグを持ってぼんやりと中央線に乗っていた。窓から過ぎていくのは知らない風景ばかり。町の名前を聞いても、どれひとつとしてぴんとこない。これから行く町は友達一人、住んでいないところだった。
 漠然と大学受験のためと、できたら作家として生きていけるようになるために山口県から東京に来ていたが、二ヶ月後の受験には本当に受かるのかどうかは分からなかった。体を壊して高校を中退したために、大学検定を取っての大学受験。もちろん作家になる当てなんて、まったくない。
 それでも家族にも友達にも自信のあることを言った手前、弱音を吐くことができず、東京の夜の人混みで独りぼっちになった途端、たまらなく寂しくなった。分かるのは東京駅から住むことになる家までの道程だけ。ほかには何ひとつ、知識がなかった。
 電車が新宿駅を通過する時、すごいネオンの輝きに包まれて、山口の夜とあまりに違うことに驚いた。下の繁華街を見ると、大勢の人たちが楽しそうにはしゃいでいる。――あんなにたくさんの人がいるのに、その中にぼくが知っている人がいる可能性は確実にゼロだ。山口で電車から外の風景を見る時は、いつも「あの中に誰かいるかも」と思えたために、そんな疎外感を感じたことはなかった。
 降りる駅は迷わなかった。何しろ中央線の駅で知っている名前はひとつしかない。国分寺駅。電車に乗っている半分ぐらいの人がぼくと一緒に降りて、初めて結構大きな駅だと知った。
 ホームからコンコースに上がって改札を出ると、まだ夕ご飯を食べていないことに気が付いた。駅前にお店は色々あったが、知らない名前ばかり。寿司屋や喫茶店や焼き肉店に入るお金はない。ラーメン屋はいくつか目に付いたが、どれも醤油ラーメンで、とんこつしか食べたことのないぼくには魅力的に映らなかった。結局、駅前で唯一馴染みのある名前のお店――マクドナルドに入って、フィレオフィッシュとポテト、それにコーラのSサイズを頼んだ。
 店内は同い年くらいの学生ばかりだったが、一人で食べているのはぼくだけだった。聞き慣れた方言のイントネーションはどこにもなく、耳に届くのはどこか冷たい印象を受ける「~じゃん」という語尾ばかり。二階の窓際にあるカウンター席に座って、下の道路を見下ろすと、人や車がせわしなく通り過ぎていく。九時を過ぎているというのに、人通りはまったく途切れることがない。――それを見て、どんどん不安になっていった。山口にいれば、知っている人がいっぱいいて、寂しいなんて一瞬だって思わないはずなのに。でも、意地を張った手前、「帰る」という選択肢はもう存在しなかった。
 その頃はまだ青い発泡スチロールの容器に入っていたフィレオフィッシュを食べ終えて、しばらくそのままそこに座っていた。家に着いたところで、出迎えてくれる人もいない。ただ真っ暗な場所で寝るだけで、明日も、明後日も、考えられる限り先まで、ずっとそれが続くことに気が付いた。遊びに来る人もいない。出かける当てもない。それどころか、話相手さえ心当たりがなかった。
 作家になんてなれるわけないじゃないか。――その時、ものすごくはっきりと自分の中からそんな声が聞こえてきた。それどころか大学を落ちたら、どうするつもりなんだ。バイトでもして生きていくつもりか? こんな地名ひとつ分からないところで――?
 食べ終わったトレーを片づけていると、近くに座っていた高校生たちが大きな声で笑って、一瞬、自分が笑われているのかと思ってびくっとなった。何しろ、東京の人たちは男も女もみんなとてもスマートだった。服装はきっちりしていて、髪の毛は一糸乱れず、行儀もよかった。何もかもが秩序立っている気がした。ぼくのようにヨレヨレのシャツを着て、ボストンバッグを抱えている人はほかに見かけなかった。
 通りに出て、バス停に向かったが、すぐに足を止めた。バス停ではみんな当たり前のように、停まっているバスの後部から乗車していた。バスは前から乗るものだと思っていたぼくは、それだけでさらに不安になった。しかも、バスの中は人がギュウギュウ詰めになっている。それなのに、まだそこに乗ろうと並んでいる人の列が続いていた。
 とても列の後ろに加わる気になれず、マクドナルドに引き返して、その隣の路地に入った。飲み屋や風俗店の並ぶ繁華街だった。その中を、ボストンバッグ片手に歩き続けた。――えらいところに来てしまった。そればかり考えていた。
 そんな時、急に聞き覚えのある音がして足を止めた。いつもスーパーのゲームセンターで聞いていたBGMの音。顔を上げると、目の前にひどく大きなゲームセンターが立っていた。
 山口にある一番大きなゲームセンターとほぼ同じ規模の店が、その細い路地にあった。しかもよく見ると、一階だけでなく地下もある。明るい光に導かれるように入口に近づくと、ガラスの自動ドアが左右に開いた。急にさっきまで聞こえていた音が十倍ぐらいの大きさになって、不愉快な煙草の煙と、すえたゲーセン独特の臭いがぼくを包み込んできた。
 ひどい臭いだったが、慣れた臭いでもあった。この町で初めて、知っている場所を見付けたように思えた。中にいる人たちも、マクドナルドにいた人たちとは雰囲気が違う。ぼくの友達によく似た人が何人もいた。
 並んでいるゲームも山口のゲーセンで散々やったものばかりだった。奥に人だかりができていたので、何かと思って行ってみると、よくプレイしていた格闘ゲームの続編が入荷したところらしく、大勢のファンが群がっていた。
 途端に自分が東京にいることも忘れて、その人混みの中に潜り込んだ。中央の筐体では二組のプレイヤーが対戦していて、それを囲んで十数人の人が画面を覗き込んでいる。うっかり立っていた一人にひじがぶつかって、とっさに「わりぃ」とつぶやくと、向こうはゲーム画面から目を逸らさずに「いや」とだけつぶやいた。いつものゲーセンだった。
 時間を忘れて二十分ぐらい見ていると、その間にどんどんプレイヤーが入れ替わって、立っている人が順番に筐体の前に座っていった。初めて訪れるゲームセンターは、山口であっても若干の「よそもの感」があるものなので、常連の人たちに遠慮して自分はプレイすることなくずっと見ていた。
 でも、そのうち徐々に立ち位置がずれていって、気が付くとプレイしている人の真後ろにいた。それでも特に気にせず見ていると、座っている同い年ぐらいの男が負けて、悔しそうに舌を鳴らしながら立ち上がった。そして、後ろに立っていたぼくに、ごく普通に「どうぞ」と席を譲った。
 ぼくは大きなボストンバッグを抱えていたし、プレイする気はなかったのだが、あまりに自然に言われたため、ついいつもやっているようにぺこっと頭を下げて、代わりに台に座った。そして、この場所に不釣り合いなボストンバッグは足元の床に置いて、あとは自動操縦のように財布を取り出し、百円玉を放り込んで、プレイボタンを叩いていた。
 故郷から千数百キロ離れた場所にいる感覚はまったくなかった。ゲームスタートのBGMが鳴っている間に、癖で首をこきっとやると、あとはもう周りの風景は消えていた。幸いにも一人、二人と勝つことができて、たまたままだ誰も見ていない技もプレイ中に発見した。周囲がどよめくのが分かり、調子に乗ってその技ばかり使って、そのあとも何回か連勝した。
 やっと負けて席を立つと、横でずっと覗き込んでいた大学生風のお兄さんが「あれ、強いね」とまた普通に話しかけてきた。技の出し方を教えると、周りの人も何人か耳を欹てていて、気が付くとその技ばかりの応酬になっていた。あとは普通に順繰りでゲームをする輪の中に入って、閉店までそこにいた。
 ゲーセンから外に出ると、不思議ともう寂しさは感じなくなっていた。町は相変わらず知らないところのままだったが、少なくとも自分の居場所をひとつ見付けた気がした。そして、初めて東京で何かの輪の中に、一瞬でも属させてもらった気がした。
 やっていけるかもしれない、と思った。
 山口にだって、知らないところや知らないお店はたくさんあった。ひとつずつ知っているお店に変えていくしかないのだと思い出した。
 それから数日のうちに駅前に六つ、ゲームセンターがあるのを発見した。昼間は家で受験の勉強をして、夜はバスで駅前に出てゲームセンターを渡り歩くのが、東京に来て一年目のぼくの日課となった。初めての顔見知りはみんな、ゲームセンターで会った名前も知らない人たちばかりだった。
 ゲームセンターに入る前に夕食をとるため、徐々にマクドナルド以外のお店にも入るようになった。ひとつずつ、駅前が知らない場所から知っている場所に変わってくると、自分がそこにいてもいいという気持ちがその分だけ大きくなっていった。
 やっていける。
 きっとやっていける。
 いつからか、自信を持ってそう思えるようになっていた。
 あれから二十数年が過ぎて、ぼくが知らなかった町は、ぼくがよく知っている町になった。駅前に名前を知らない店舗はほとんどない。今あるお店ができる前にそこに何があったか――さらにはその前のお店も、そのまた前のお店も言えるようになった。国分寺には駅ビルができて、スターバックスが開店し、南口には新しいビルも建った。
 そして、その最中で、ぼくがよく通っていたゲーセンはひとつずつ看板を下ろしていった。最初は二階でビリヤード店と併設されていた大きなゲーセンが。次は南口のさびれていた駅前店舗が店を閉じた。駅からちょっと離れたところにあるゲーセンはいつの間にかなくなっていた。よく通った30円でゲームができる格安のボロゲーセンは案外長く営業を続けて、つい五、六年ぐらい前までは毎日開いていた。
 一番好きだった通好みのゲーセンはかなり最近まで持ち堪えたが、ある日、前を通ると中が空っぽになっていた。そして、最後に一軒、ぼくが東京に来た日、初めて入ったそのゲーセンだけが残った。
 もうゲーセンにも行かなくなって久しいが、今日、スターバックスにコーヒーを買いに行った帰り道、ふとそのゲーセンの前を通りがかって愕然とした。つい先日まで太鼓の音を響かせ、UFOキャッチャーが光を放ちまくっていた場所は、すっかり真っ暗になって沈黙していた。
 コーヒーを手にしたまま、真っ暗の店内を前に、茫然と立ち尽くした。正直、その時までは上京一日目の出来事など完全に忘れていた。最後にそのゲーセンに入ったのがいつだったのかも思い出せなかった。でも、その暗い店内を見ていると、色々な思い出が鮮明に浮かび上がってきた。
 もう二度と開かない自動ドアから、あの日の自分が出てくるのがはっきりと見えた。入っていった時よりも、ずいぶん明るい顔になっていた。その時に目に映っていたものも、映っていなかったけど見えていたものも、克明に思い出せた。
 ぼくにとって、ここはこの町で最初に知った場所だった。
 よく見ると、ゲーセンの左右のお店も軒並み閉店している。「国分寺駅北口再開発計画に伴い閉店します」という貼り紙がどのお店の店頭にもあった。半世紀前に決まったはずなのに、永久に始まらないと思われていた再開発計画が、ここに来てついに着工したようだ。北口全域の建物を潰して、新たに大きなロータリーと商業施設を作るのだという。
 ぼくが知っている町は、どうやらまた知らない町に変わる時がきたようだ。きっと今から数年経ったら、この町に初めてやってくる若者たちにとっては、その新しい町が「知っている町」になる。その子たちはかつてこの場所にゲーセンがあって、二十数年前のぼくを慰めてくれたことを知ることはない。
 きっとそれでいいのだ。そうして町の景色は何十回、何百回と変わってきた。ぼくが知っている町は、その中のある短い期間のことだけだが、この場所はぼくにとっては、いつまでも「ゲーセンがあった場所」だ。
 ゲーセンの前で目を閉じてみた。
 すると、音が聞こえてくる。あの日、ここを通りがかった時に聞いた、なじみ深い音。その音はきっとこれからも、この場所を通る度、いつだって聞こえてくるのだろう。――知っている町と知らない町の、遠い遠い間で。

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【最後まで残っていたゲーセン・タイトーステーション】

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【あんなに明るかったゲーセンの店内は真っ暗】

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【あの日、フィレオフィッシュを食べたマクドナルドにも今は灯がなく】

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【ロナルドの悲しいお知らせのポスターだけが貼られていた】

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