※本来ならばスーパー猫の日をお祝いする内容を掲載するはずでしたが、うちは基本毎日が「スーパーハイパーデラックス猫の日」なので、とりあえず向山貴彦のコラムを載せておきます。データがありすぎて、未発表なのか発表済みのものか定かではないのですが、お楽しみいただけたら幸いです。(猫蔵)
平均の神様
世界中に多々ある神様をどのくらい信じているかというと、これはとても難しい質問だ。
四十を超えた今も、まだ「神様」というものがいるのかどうか、ぼくは本当のところ、よく分からない。身近な人が理不尽な不幸に合うのを見るといないような気がすることもあるし、野原一面の花がすべて太陽の方を向いているのを見ると、いるような気がすることもある。正直、四十でこれはけっこうすごいことだと思う。何しろその他の事柄には、もうたいていはっきりと白黒がついたあとだからだ。
UFO:いない
妖怪:いない
改造人間:いない
本当に純真なアイドル:いない
まだ「いるかもしれない」と思っているだけ、かなりすごいことだと思うが、「信じている」と言うには「神様がいたら起きそうもないこと」をたくさん見過ぎた気がする。それでももし神様がいるとしたら、確実にぼくが信じているのはたった一種類だけだ。
「平均」という名前の神様。
人生初期には「ジンクス」というものを割と信じていた。「靴は右足から履くと運がいい」とか、「グーを二回続けて出すとジャンケンは負ける」とか、「ジャンプの間に挟んで買ったエロ本はレジで表面にひっくり返される」とか、けっこういろんな自分ルールを設けていた。ただ、残念ながらそのどれも四十年の実験に耐え抜いたものは存在しなかった。
サイコロを振れば6が続けて三回出ることはある。でも、六十回振れば、たいてい6が出る回数は十回前後だ。四十年、靴を右足から履いていれば、運が悪い日に当たることもある。ましてやサンデーに挟んでも、マガジンに挟んでも、雑誌をひっくり返されることなどしょっちゅうだ。
「平均」の神様はすごい。どんな場合にも必ず降臨する。幸せだけの人生はないし、不幸だけの人生もない。中学の時に「なんでこいつばかりこんなにモテるんだ」と思ってうらやましかったAくんだって、年を取ってからは色々と災難に見舞われている。(モテているから災難にあっているとも言えるが。)
大学の一般教養課程の数学で「平均」についての授業を受けたあと、本当にそれが正しいのかと実際にサイコロを図書館の机の上で300回振ってみたことがある。
一回振っては出た目を記録していくと、最初の頃は3ばかり多く出て「ほら見たことか」と思ったりしたが、出遅れていた目も徐々に追いついてきて、200回を過ぎた辺りでほぼ横一直線に並んだ。それは本当に奇妙な感じで、同じように増えていく正の字を数えながら、思わず「どっから見てるんだ」と天井を見上げたりした。
確かに何かが見ていて、ちゃんと「平均」になっていくことを確かめているような気さえした。300回振り終わった時、すべての数字がぴったり50になっていて、偶然にしてもすごいことだと思えて、しばらく何をしていても「何かに見られている」感じが取れずにいた。
それ以来、ぼくはずっと「平均」の神様だけは信じている。
「平均」の神様を信じるまでは、たとえば赤信号につかまった時、「運が悪いな」と思ってしまうことが多かった。でも、今では「緑で通れることも同じ回数ある」と思うようになった。
平均の神様の力は凄い。決して間違えないし、いつだって圧倒的に公平だ。ただ、平均の神様は大きいことは得意だが、小さい事は少し苦手だ。自分一人の人生で考えると平均の神様が失敗しているように見えることもあるが、もうちょっと広く見渡すと、やはりちゃんと平均の神様が機能している事を知る。
一番平均の神様に感動したのは戦争のあとの新生児の男女比を見た時だ。戦争では男が大勢死ぬ。もしそのままにしておけば、明らかに今、女子の方が大幅に多くなっているはずだ。しかし、平均の神様はそんなイレギュラーな事態まで計算に入れて、平均化してしまう。どこの国でも戦争のあとは男性が多く産まれて、帳尻が合うようになっているのだ。
でも、平均の神様の一番いいところは誰も自分を祈る信者がいなくても、ちっとも気にしないことだ。世界中でいつもすごいことをやっているのに、誰も気が付かない。感謝もしない。
でもぼくがやっても、他の誰がやっても、人生はいつだって成功する確率が同じなのはこの神様のおかげだ。だから今日もぼくは手を合わせる。
明日もあさっても、平均的な、幸せな一日であることを。