お待たせしました。数回ぶりの、向山過去コラムの時間です。
本日のテーマは「死語」。とはいえ、このコラムが書かれた時代からさらに死語化したものも増えました。つい最近流行ったばかりに思える「うっせぇわ」なども、若者にしてみたら「あーあったよね。けっこー前(っていっても去年とか)」の話みたいで、時の流れの速さが恐ろしいです。「ぴえん」とか「きゅんです」とかも、十代の間ではきっとそろそろ使用期限が切れてきているんだろうな…。こうなると、俄然「今北産業」とか「ぬるぽ」とかさりげなく使ってみたくなるのですが、いかがでしょうか。
ともかく移りゆく言葉の世界。温故知新を胸に、たまには古い言葉にも触れてみるのも、ありよりのありってことで、お願い申し上げます。
死後の世界 文:向山貴彦
先日、ティッシュのことを「ちり紙」と呼んで、若者に笑われた。一瞬、なぜそれがおかしいのかも分からなかったので、そろそろ本格的におじさんになって来ているのかもしれない。
どうしても音楽を買うところを「レコード屋」と呼んでしまったり、ごく希にだけどパソコンのことを「ワープロ」と呼んでしまう。ぼくにとってはそれほど違和感のないことだけど、きっと今の十代が聞いたら、ぼくの子供の頃に父が「映画」のことを「活動写真」と呼んでいたぐらいの衝撃なのだろう。
考えてみれば、今の十代は生まれた時からネットも携帯電話も液晶テレビもあったわけで、おそらく大半の人はカセットテープで音楽を聴いたことなどないだろう。ましてや、あの爆発する恒星のような一瞬の輝きと共に消えた「MD」という不遇なメディアなど目にしたことさえないはずだ。正直なところ、現実にその時代に若者をやっていたぼくでさえ、はっきり思い出せないので当然である。
気が付くと、言葉はあっという間に変わっている。小説を書いていると、時々その変化に驚かされることがある。ほんの数年前まで携帯電話は「開く」のが当たり前だった。描写する時にはまず「携帯をポケットから出して開かせる」ことが必要だったが、いつしか「携帯を開く」という動作に違和感が出てきている。それは自分も含めたぼくの周りの人がひとんどスマートフォンになったからだろう。うちの母親なんて初代iPhoneをぼくよりも先にゲットしている。
おそらくあと十年も立てば「携帯を開く」という文章を読んだ若者は、それが何をしているのか想像もつかなくなるだろう。あるいは「携帯」という単語そのものもすでに絶滅しているかもしれない。
かつてはチャンネルも、電話も、ドアノブも、みんな回すものだった。でも、最近はすべて押すものに変わっている。確かに押す方が動作がひとつ少ないので、楽と言えば楽だ。ラジカセのボタンが重い、明らかに何かを押し込んでいる感触のある物理的な再生ボタンから、「ピッ」という音だけの小さなボタンに変わった時にもずいぶんショックを受けた覚えがある。(「ラジカセ」が何か分からない十代のみなさんはお父さんお母さんに聞いてください。「ラジカセが何か知らないの!?」といううざったい驚きだけ我慢すれば、教えてもらえるはずです。)友達のところで初めて見たベータのビデオデッキは再生ボタンが名刺ぐらいの大きさで、両手を当てて力をかけないと押し込めないものだった。巻き戻しの機能はついていたが、あまりにも速度が遅いので、テープを取り出して、鉛筆を差し込んで、手で巻き戻した方が早いようなシロモノだった。
分かっている。今のパラグラフにも「ラジカセ」「ベータ」「シロモノ」というだいぶ死期の近づいた言葉が入っていることも。また、こういった言葉を親に何かと尋ねると、その度に「そんなことも知らないの?」と驚かれるのがうざいので、わざわざ十代のみなさんが尋ねないことも。
ぼくが「サッカリン」「大八車」「ミゼット」「チンチン電車」などを親に尋ねた時、三十五年前でも同じ反応だったので、気持ちは分かっているつもりだ。――ただ、これは決してバカにして驚いているわけではないのだ。みなさんにとっての三十年後というのは、ドラえもんが発明されるくらい未来だと思うが、四十代以上にとっての三十年前というのは、先週のちょっと前ぐらいなので、「ベータ」も「VHS」も「ワープロ」も「MD」も、なくなってしまったことがあまりに不思議なだけなのだ。(よく考えると、最後のやつだけはそんなに不思議でもない。)
それでもすべてが消えていくわけではないのかもしれない。今でも「チャンネル回して」とぼくはたまに言ってしまうが、それでも結構違和感なく通じてしまうこともある。「電話をかける」もおそらくは最初、受話器が壁にかかっていたからではないかと思うが、もう当たり前の動詞として定着したようだ。「暖房点けて」もおそらくは最初、マッチで火を点けていた動作が残っているのだと思う。「電話」という聞き慣れた単語でさえ、当初は「電信で話す」ということを縮めたものなのだろう。「電信」はさらに「電気の信号」という原始的な科学の基礎まで戻らないと、その生まれた過程が分からない。
遡っていくと、おそらくほとんどの言葉はそうして最初は見たままの形からつけられ、時代と共に余分なところがそぎ落とされ、言いやすく、愛された言葉のみが辞書に残っていくのだろう。
そのものは残っているのに、当初の呼び方が消えたものもある。「ホームページ」「マイコン」「オートバイ」などは出た当初に慌てて付けられたが、どうにも響きが悪く、使いにくいので、後に「サイト」「パソコン」「バイク」とかにさりげなくあらためられている。この例の最新ものになりそうな気がしているのが「スマートフォン」だ。このどう考えても間の抜けた名前が生き残るとが思えない。さらに省略形の「スマフォ」に至っては、言う度になんとなく腹から力が抜ける感じがする。非常に効きの悪い薬物のような名前だ。
どこかの会社がより良い名前を思いつくまではしばらくこの名前は小説の中では書くのを避けた方が良い気がしている。なぜなら十年後にこんな会話がどこかの家庭で交わされるところが目に浮かぶからだ。
子供「母ちゃん、このスマフォっていうの何? 外国製の靴か何か?」
母親「おや、そんなことも知らないのかい? 最近の子は何も知らないから――」
子供「うるせえな。もういいよ。それよりいい加減、そのMDっての捨てろよ」