噂では、明日から新学期がはじまる学校がけっこうあるとか。
新学年、新学期、ということで、ドキドキしながら胸を弾ませている(よく考えると同じ意味)人に。入社式を終えて、本格的に仕事をスタートする人に。新年度の部署替えで、絶望している人に……。
人生に悩むいろんな人に読んでもらいたい、向山コラムを本日はお届けします。
究極の教科書 文:向山貴彦
ある程度大人になってから気が付いたのだが、ずっと見落としてきたものの中に、人生のすべての答えが載っている奇跡の本があった。生きている間に「こうしたらどうか」「ああしたらどうか」と苦悩しながら、十数年の試行錯誤を経てたどり着く結論が、たいてい全部その本に最初から書いてあるのだ。
しかも、ぼくはその本を子供の時――まだ年端もいかない幼児であった時にすでに読んでいた。その本は実質、ただでもらったものだったと思う。ぼくだけではない。少なくともぼくと同世代のすべての日本人は多かれ少なかれ、その本を読んでいるはずなのだ。
道徳の教科書である。
あの毒にも薬にもならないような無害な教訓が載っている、古くさいイラストだらけの本のことだ。
例に漏れず、当時ぼくもあの本を馬鹿にした。道徳の時間そのものを馬鹿にしていたかもしれない。実際、先生も学校もあまり力を入れているようには見えなかったし、たいていは勝手に教科書を読んで、たまにその感想文を書かされていたぐらいだ。
教科書に書かれているのは、いつも鉛筆を盗んだKくんのことを先生に報告するべきかどうか、みたいな小話ばかりで、たいしたドラマ性もない。出てくる教訓もハリウッド映画のように派手に「夢を抱け!」とか「世界に羽ばたけ!」とかではなく、「掃除をちゃんとしよう」とか「予習復習をきちんとしよう」とか「栄養の偏りがない食事をしよう」などといった、当たり前で、地味で、別に言われなくても分かっているようなことばかりだった。テストもないし、覚えることもないし、成績もつかないし、一番どうでもよくて、一番無意味な授業だった。
そんなことで人生が幸せになるなら苦労はしない。そう思って、若い時に自分なりのルールを作って来た。若者特有のマグマのような熱いルールたちである。
・仕事は倒れるまでやれ
・空腹を忘れるぐらいでないとがんばってるとは言えない
・無理は基本、無茶は必須
・五体満足だということはまだ余裕がある
・打ち上げに参加できるような体力を残して終わるな
今見てみると、あり得ないようなルールばかりだ。当然のように、それらのルールは全部人生のどこかで破綻を来し、その度に柔らかく調整を加えて、細々とアップグレードしてきた。調整を繰り返していくと、ルールは不思議なほどシンプルになっていく。そして、最初は大げさだったものがやけに日常的で小さなルールに落ち着いた。
当時は良い物語を書くためには、たくさんの冒険をして、リスクを冒して、ムリをして、命を賭けて、大きく夢を抱いてがんばればいいと思っていた。でも、これらのことをするのに、若い時には当然無視していた大きな前提条件がある。
それは心も体も元気であるということだ。
病気も事故も予測できない。一旦、病気になったり、事故に巻き込まれると、大仰な目標はすべて無意味になる。無理をしようにも無理ができない。夢を抱く余裕もなければ、働くことさえできなくなる。そうなればお金もなくなる。作ってきた自分のルールの礎など、泡のように無意味に消えてしまう。
そういった時はこんなルールではだめなのだ。どんな時にも――貧乏な時にも、体がしんどい時にも、夢破れた時にも通用するセットのルールが必要になる。何しろ人生は変化する。二十代の自分のまま年を取って死ねるなら、ルールを作るのも簡単だ。でも、刻々と変化し続ける人生で、自分の考えを一貫して保つには、もっとどんな場合でも通用する汎用性のあるルールが必要なのだ。
その結果、ぼくのルールはずいぶん簡単なものばかりになった。
・規則正しい生活をしよう
・予習復習をちゃんとしよう
・三食を同じ時間に偏りなく食べよう
・食事は家族みんなで家で食べよう
・夜は早く寝て、朝は早く起きよう
・無駄遣いはやめよう
・友達を大切にしよう
全部、道徳の教科書に書いてあったことだ。ぼくはそれを小学校低学年の時に全部覚えたはずなのに、それがどんなに優れた人生のコツなのか、ずいぶん年をとるまで気が付かなかった。おそらくではあるが、道徳の教科書を守って生きていれば、かなり高い確率で幸せになれるのではないかと思う。
もちろん、それは簡単なことじゃない。あるいは一番難しいことなのかもしれない。
でも、あれは数百年かけて我々の先祖が見つけてきた「幸せの法則」なのだ。軽々しく扱うべきものではない。実はすごい知識の集積なのだが、あまりにも当たり前に「保健便り」とかで目にするので、つい軽視してしまいがちなだけだ。
三十代の初めくらいに自律神経失調になった時、気が付いたことがある。どうも精神を病んだり、不幸になったりする人は、多くの場合、巨大な天災に見舞われた人間ではない。ただ単に、下の三つの条件をひとつも満たせてないだけだ。
・規則正しい時間に睡眠をとっている
・正しい食生活を送っている
・家が片付いている
逆に言えば、この三つだけしっかりしていれば、よほど不幸なことがあっても、人間はやっていけるように思う。大病をして十代の頃に長期入院している時、ずいぶんたくさん世間で言うところの「不幸な人」と出会った。どのくらい生きられるのか分からない少女や、生まれてから一歩も病室から出たことのない少年。たった一人で病気と闘う老人。目も見えず、足も不自由で、ずっと入退院を繰り返している男性。――でも、彼らは別に不幸ではなかった。みんなよく笑い、よく人を笑わせた。そして、規則正しく睡眠をとって、食事をして、部屋が片付いていた。
逆に大学時代や社会に出て自称「不幸」な人もたくさん見てきた。彼らはたいてい特に難病を抱えているわけでもなく、寿命が残りわずかでもなく、それほど貧乏でもなければ、それほど不幸な家庭の出身でもなかった。ただ、部屋は散らかっていて、昼間に寝ていて、食事は外食ばかりだった。
誰よりも、ぼくがそうだった。
十数年も「何が正しいのだろう」と悩んで、色んな難しい本を読んだり、文学作品に答えを求めたり、えらい人の話を聞いたり、旅に出たりもした。きっと「道徳の本を読め」などと言われても、耳も貸さなかっただろうと思う。「食事を規則正しくしただけで、おれの抱えている問題が解決できるか!」と怒っていたかもしれない。
でも、その時のぼくに言ってやりたい。
一週間でもいいから、試しにやってみろ、と。
規則正しく、バランスよく食事をとるのは、おまえが思っているほど簡単なことじゃないんだ。
試しにどれぐらい差があるか、一週間、毎日ちゃんとレシピの本を見て、バランスのいい食事を正しい時間に自分で作って食べてみろ、と。それは驚くほどすごい変化をもたらすから、とにかくやってみろと。
その上でさらに夜、パソコンなんていじってないで寝ろ、と。朝七時に起きて散歩でもしろ。十年ほったらかしになっている倉庫の中を片付けろと。流しにある皿を一刻も早く洗えと。
信じられないかもしれないが、それだけで変わる、と。
解決法のないようなすごい悩みでさえも、その三つが揃えば、案外魔法のように解決するから一週間試しにやってみろ、と。
頭の中が散らかっている人は、机の上が散らかっている。
人生が散らかっている人は、部屋の中が散らかっている。
過去が散らかっている人は、倉庫の中が散らかっている。
頭も、人生も、過去も掃除はできないけど、机と部屋と倉庫は掃除ができる。不思議なことに、それらを掃除すると、相対する現実の部分も整理されていく。
子供時代に安全と安心を感じていたのは、時間がいっぱいあったからでも、夢があったからでも、心がきれいだったからでも、健康だったからでもなく、親がちゃんと見張っていて、夜寝て、朝起きて、三食ちゃんとごはんを食べて、部屋を掃除するようにやかましく言ってくれていたからだと、その時になってやっと気が付いた。
もしこれを読んでいて二十代の頃のぼくのように、どんな薬も、どんな人の言葉も自分を救えないような気がして、世界中のどこにも自分が探している答えがないと思っている人がいたら、試しに小学校の道徳の教科書を読み返してみてほしい。――あれは理想の正義をふりかざす本ではない。先人が膨大な時間をかけて研究した末に「確かな方法などないが、幸せになるために不可欠な人生のコツ」を集めた貴重な本なのだ。
宗教のように崇高な話ではない。ビジネス書のように貪欲なものでもない。
ただ、いつの時代にもいた、平凡な幸せを望むごく普通の人たちが一生をかけて考えて、ほかの人の人生とよく照らし合わせ、そして後世の人の幸せを願って残してくれた人生の「攻略本」なのだ。
すべての答えは得てしてすぐ近くにある。あまり遠くを見ていると、案外見付からない答えが人生にはたくさんある。一生探し続けている疑問の答えは、けっこう小学校の時にもう知っていたりするものだ。