「家庭内治外法権」
家庭っていうのは怖い。何しろほとんど完全な密室だ。
――いや、別に児童虐待とか、そんな大げさなことを言っているわけではなくて。
覚えがあると思う。親が勝手な独断と偏見で作った「家庭内ルール」のことである。例えば、ぼくの子供の頃の向山家では、今や全国民があたりまえにやっている「シャツの裾をズボンから出す」ということが、宗教上の禁忌のように扱われていた。何しろ、この「シャツが出ている状態」は向山家ではあまりにもよくないことだったので、それを差す専門用語までがあった。「えちょぱっぱ」である。ぼくは長らくこの単語が公式な日本語だと思い続け、小学校で「えちょぱっぱ」になっている奴に向かって「おまえ、シャツがえちょぱっぱになってるぞ」とはやし立て、半年間、あだ名が「えちょぱっぱ」になったことがある。
一応調べてみたが、これは方言ではない。今、グーグルで”えちょぱっぱ”で検索したので確かだ。全世界数億のサイトを調べた結果、検索結果はゼロだった。”山田太郎のバットは汗臭い”でも三件ヒットするグーグルである(全部うちのサイト)。こんな結果は長らくグーグルを使っていても、あまり見たことがないから間違いないと思う。
幼い頃の我が家では大きくなるまで独自ルールだと分からずにやっていたことがけっこうある。
なぜかうちの親は背中を掻くことを「かじる」とよく言っていた。両親どちらかの故郷の方言なのかも知れないが、日本語の作家になった今でも、あまりにもこの言葉が頭に深くインプリントされすぎていて、よく使い間違えてしまう。「ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本」の冒頭で使った動詞のひとつが「scratched」だったのだが、おかげでこれを訳す時に何度も「猫がエドを『かじった』」と訳してしまい、たかさんが当然のように猫がエドに噛みついている絵を描いてくるので、「ちがう。これはかじってるんだよ!」と言って、スタッフを大混乱に陥れた。ねこぞうが気が付いて、みんなの前でずばり指摘してくれた時には、あまりの恥ずかしさで焼身自殺が頭を過ぎった。
うちの親は長くアメリカに住んでいたせいもあって、時々驚くようなものの知識が欠け落ちていることがあった。料理なども戦後に流行ったものはあまり詳しくなくて、日本に帰ってからもしばらくカレーのルーに気が付かず、ずっとカレー粉からカレーを作っていた。(おかげでぼくにはなぜ「子供の好きな料理1位」がカレーなのか理解できなかった。)その親がある時、友達の「内藤さん」の家にぼくを連れて遊びに行った時のことだ。まだ幼いぼくが「お腹が空いた」と騒ぎ出したので、親切な「内藤さん」の奥さんが肉のそぼろを作って、それをご飯にかけて出してくれた。小食だったぼくが、それをひどく気に入ってバクバクと食べたので、両親はその料理の作り方を聞いて帰って、それから時々作ってくれるようになった。――ここまではいいのだ。問題は両親がその料理の名前を内藤さんに聞かなかったことである。
大変ネーミングのセンスのないうちの親は、その料理のことをそのままずばり「内藤さん肉」というとんでもない名前で呼び始めた。何しろぼくも五歳だったので、これがいかに常軌を逸した料理の名前か分かろうはずもなく、「肉そぼろ」の名前はあっさりとぼくの中で「内藤さん肉」に決定した。これが生姜焼きとかオムライスなら少なからず早い段階で気が付く機会もあっただろう。しかし、「肉そぼろ」という単語は実家が弁当屋でも営んでいない限り、そうそう日常に出てくる単語ではない。ぼくは疑問を感じることもなく、そこから小学校五年のある日まで「内藤さん肉」を信じ続けた。
さらに厄介なことに、我が家ではお漬け物――特に大根の葉などの葉っぱものの一夜漬けを「おこうこ」と呼んでいた。これは西の方のれっきとした方言らしいが、問題はこの大根の葉っぱの漬け物で「内藤さん肉」を巻いて食べるのが向山家でブームになったことだ。その食べ物のことをぼくらは誰からともなく「内藤さん肉おこうこ巻き」という地下プロレスの必殺技のような名前で呼んでいた。
もう概ね顛末は想像できると思うが、ある時、高菜の漬け物とそぼろご飯が友達の家で出て来たことがあった。ぼくが当然のように高菜でそぼろご飯を巻き始めると、友達たちは怪訝な顔でぼくの方を見始めた。「何してんの?」と聞かれたぼくは前述の「えちょぱっぱ」の経験でまったく学習しておらず、胸をはって「なんだ、おまえら知らないのか――」と、口を開き始めた。後日、ぼくは当然のようにあだ名が「内藤さん肉」になり、給食で肉を食べていると、それが何の肉であろうと「内藤さん肉食ってる」とはやし立てられた。
その後も小学校六年の時に「耳掃除の麺棒」を「耳くちゅくちゅ棒」と呼んで自爆したり、コーヒーが十八歳以下禁止の飲み物だと思わされていたために、コーヒーを飲んでいた友達に「やめろ! 逮捕されるぞ!」と止めに入って、「コーヒー刑事(デカ)」というあだ名ももらったりした。本は大事なものだからどんなものでも古本屋に売ってはいけないというルールもあった。ジャスコにおつかいに行くと、50円のゲームを一回してもいいというルールもあった。お祭りの屋台ではリンゴ飴だけは買ってはいけないという禁もあった。
ルールはほかにもたくさんあった。そして、面白いことに未だに抜けないものもいくつか残っている。
緑茶はマグカップで大量に入れること。
家族の送り迎えは喜んでやること。
人が来たら座れるところをいつも作っておくこと。
家はとにかくドアの少ない作りにして、できるだけ大きな部屋にみんなでいること。
出かける時は必ず家族に「気を付けて」と声をかけること。
そして、何よりも大事なルールは、ルールを破った時はちゃんと謝ること。
この最後のルールは子供だけでなく、大人にも適用されていた。うちの母親は三十を越えたぼくに、ある時ふいに思い出したように、「小学校の時に一回理不尽にしかったことがあった」、と謝ったことがある。もちろんぼくの方はそんなことはずっと前に忘れていたのだが、母親はそれを長い間悔いていたらしい。我が家のルールがちゃんと機能していた何よりの証拠だと思う。
これらのルールはぼくにとって、今も少しも変わっていない。おそらく妹のところでもそんなには違わないで運用されていると思う。願わくば温かいルールに従って、生涯を過ごしていければと思う。変わらなくていいものは変わらなくてもいいのだ。たとえ、それでどんな変なあだ名を付けられたとしても。
ただ、最後にひとつ、今日から変わることもある。それはこれからグーグルで”えちょぱっぱ”を検索する人は、確実に一件、サイトがヒットするようになることだ。