先週、二年ぶりに下関に帰って、久しぶりに自分の中学生時代の部屋にぼんやり座っている時、久しぶりにここで何かを書いてみようと思い立った。ご存知の方もいるかもしれないが、現在刊行中の「ほたるの群れ」は元々中学時代にその部屋で書いた小説が元になっているため、不思議な既視感を覚えていたのかもしれない。そうしてなんとなく書き出したエッセイのような、日記のような変な文章が案外長くなってしまったので、前半と後半の二回に分けて、カウントダウン初日の今日と、二日目の明日に亘って掲載してみようと思う。
多少感傷的になっているのは、三十年前、必死に小説を書いていた十代の自分の幻影が目の前にいたためで、できたら大目にみて欲しい。
————————————
【まだ窓の外を見ている(前編)】
その日、ぼくは部屋のベッドに寝転んで、窓から外の空を木の枝越しに見ていた。
日曜日。中学校が休みで、朝からすることがない。もちろん宿題は溜まっていて、手伝った方がいい家事は家の至る所にある。でも、ぼくは中学三年生の男子で、中学三年生の男子は後回しにできることはどこまでも後回しにするものだったので、その時もただベッドに寝転んでいた。
家にある漫画は妹のものまで含めて、少なくともどれも十回は読み返している。七時まで見たいテレビもない。友達と遊びに出る約束もしていなければ、そのための小遣いも残っていない。仕方がないので、寝転んでじっと天井を見ているしかなかった。天井のタイルの模様は数えられるような形ではないのに、それでも枕の上にあるタイルだけは何度か数えていた。大小併せて模様は347コぐらいだったと思う。あの頃はそのくらい暇だった。
ぼんやりと天井からまた窓の外へと視線を移す。風通しのために開け放たれた窓の外から、蝉の鳴き声と、近くの学校から届く部活の音が響いている。でも、何を言っているのか聞き取れるほど大きな声ではない。その遠い音を聞いていると、自然と自分も意識が学校へと引き戻されていく。ただ、学校と言っても、毎日通っている学校ではなくて、校舎も教室もまったく同じだけど、違う学校だった。ぼくの頭の中だけにある、もうひとつの学校だ。
そこに高塚永児という少年と、小松嬉多見という少女が通っている。制服も上靴もぼくと同じものを身につけていて、クラスも同じ教室だけど、彼らはぼくにしか見えない。中学一年の時に一緒に学校に入学して、それ以来、一緒に年を取って、今は二人とも中学三年になっていた。
一日の最大のハイライトが「あらくんと小黒板でお互いの頭を殴り合う」ことであるぼくと違って、彼らの中学生活は実にエキサイティングだ。殺し屋に襲われて、いつも町中や校内を逃げ回っている。彼らはぼくができたらいいなと思っているような恋愛も、冒険も、みんなやっている。そして、ぼくが簡単に屈してしまうような大人たちにも、決して屈することなく立ち向かう。
台所から声。母ちゃんだ。部屋を片付けろとのお達し。束の間、現実に引き戻されて、ベッドから半身を上げて台所に叫び返す。「やってる!」――もちろんまったくのうそである。母ちゃんだってそれは分かっている。そうしてまた寝転がり、窓の外を見て、部屋の片付けが最大の試練であるぼくのつまらない日常を振り払うように、現在第九話(クライマックス直前)にいる永児たちの活躍へ思いを馳せていく。卒業まであと半年。卒業式までには最終十二話を書き上げないと、学校にそれなりにいる「読者」に申し訳がたたないので、そろそろピッチを上げないといけない。
ただ、最終回でやろうと思っていることは決まっているのに、そこまでどうつなげていいのかが分からなかった。誰に聞いてもそんなことを教えてくれる人はいない。試しに国語の先生に「どうやったら壮大な感じの話になるんですか?」と聞いてみたが、国語の先生の返事は「いいから漢字テストの予習やれ」だった。
仕方なく、自分一人で窓の外とにらめっこをして、とにかく考えるしかなかった。——どうすればもっと面白くなる? いつも読んだあとに「まだまだだな」と言い捨てるせヴんの鼻を明かすにはどうしたらいい? どうしたらぎゃふんと言わせられるほど面白くできる? そもそもぎゃふんって言う人間が本当にいるんだろうか?
どうせ身内のせヴんや林の感想なんてどうでもいいのだ。確かにちょっと的確なことを言うのでいらっとくる時もあるが(例:「なんで雨降ってるのに誰も傘さしてないんだよ」)、あいつらの言うことなんて、所詮ただのいやがらせに決まっている。その時のぼくは連中の言うことなんて気にもならなかった。——何しろ先日、長いこと学校内で行方不明になっていた四話を、急にまったく知らない二年生の女の子が教室に返しに来てくれて言ったのだ。
「面白かったです。続きないんですか」
あれに比べたら奴らの感想など、食べ終わったポテトチップスの袋の底に残る破片みたいなものだ。何しろ、後輩のかわいい女の子にウケたのだ! いや——ずっと斜に構えていたので、顔は見ていなかったのだが、あんなことを言う子はかわいいに決まっているのだ。
そうだ。こんなところで窓の外を見ている場合じゃない。早く続きを書かなくては。カレンダーに自分で決めて書き込んだ九話の〆切までもう一週間もない。——中学生はこういう時、いきなり気持ちが高ぶるから便利だ。
よっと体を起こして、机に行って、今までの貯金全額+三回分のお年玉+一年分の小遣いを前借りし、それでもお金が足りなくてベスト電器で店員に泣き付いてまけてもらってやっと買うことができた、当時ではまだ珍しい日本語ワープロに向かう。
表示部の液晶が六文字しかない上に、記憶装置が一切ないので、電源を落とせば打ったものは全部消えてなくなるすごいワープロだったが、それでもぼくにとっては宝物だった。その前に座ると、すっかり「作家」気分になる。作家はやはり執筆中はコーヒーを飲むべきだと思ったが、我が家は子供はコーヒー禁止だったので、仕方なく麦茶を温めて、砂糖を入れてコーヒーだと思い込んで飲んだ。
打ち始める前にインクリボンの残量を確かめる。とにかくリボンは高い。もうしばらく新しいのを買う余裕はなかった。しかし、こういう時のために、今まで使い終わったインクリボンは全部ティッシュの空き箱に取ってあって、全部ペン先で強制的にリボンを巻き戻している。下書きならこれを再利用すれば、若干文字は霞むものの、十分に読めるのだ。
机の引き出しからキャンパスノートを取り出す。表紙には「3-9 向山 技術」と書いてあるが、技術科でノートなんて使うことはないので、一冊まるまる余ったものを小説の下書き用に使っていた。前回まで下書きしたところをノートの中から見付けて、推敲しながらそれをワープロに打ち始める。一話を書いている頃は行き当たりばったりで書いていた。それが三話ぐらいなると、書き始める前に全体を考えるようになった。五話を過ぎると、書いたあとにところどころを書き直すようになった。六話では一回下書きをしてから、それを元に清書をするようになり、七話ではその下書きの回数が二回になった。八話で初めて先に脚本を書いて、そこから文章を起こすことを試みた。どの回も勉強だった。でも、頑張れば頑張るほど読んでくれる人が増えたので、否が応でも頑張るしかなかった。
ワープロで印刷した原稿を渡すようになってから、みんな以前よりまじめに読んでくれるようになっていた。でも、ワープロは電源を切る前に印刷した原稿をうんと読み返して、絶対に間違いがないことを確認しないといけないので大変だった。何しろ間違いがあったら全部打ち直しだ。しかも、もし行がずれたりしたら、そのあとのページも全部打ち直しになる。手間はもちろんだったが、それ以上にリボン代を工面する宛がなかった。だから、電源を消す時はいつも少し手が震えた。
窓から風が入ってくる。廊下の向こうから母親の「片付けてるのー?」という声が響いてくるが、もうそれも耳に入らない。ぼくはワープロに向かって、パチパチとキーボードを打ち始める。頭の中は部屋を離れ、架空のもうひとつの中学校へと飛んでいく。もう現実のことは何も関係ない。退屈な毎日も遠くなる。夕飯までは、殺し屋と思う存分戦うのだ。
(後編につづく/明日更新)
(その当時使っていたワープロの在りし日の姿)