パイポ

本日のワンパラ(3/6)「岸壁のおじさん」

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「岸壁のおじさん」

 子供の頃、よく「将来なりたいもの」を書かされた覚えがある。
 たいていプロフィールのようなものを書く時は、最後にその項目があった。ぼくは割とその項目を埋めるのが好きで、突拍子もない答えを書いて、よく先生に怒られた。

 最近、姪っ子のためにプロフィール用紙を作っていて、ふと思った。「将来なりたいもの」を最後に聞かれたのは、いったい何年前のことだろう。そんなことを聞かれなくなって、ずいぶんと久しい。——いつからあの項目は、ぼくが書くアンケート用紙から消えてしまったのだろうか。
そして、もし今それを聞かれたらぼくはなんと答えるのだろう。

 そう思いを巡らしていると、ずっと昔、下関の岸壁で釣りをしていた頃の風景が浮かんできた。下関は町の三方向が海に囲まれているため、当時の小学生男子にとって「釣り」は今の子供のDSに相当するものだった。学校から帰って暇な日は、近くの海岸までアパートの大人の誰かに連れて行ってもらって、そのまま岸壁に数時間放っておかれる。今の時代だと危険なことに思えるかもしれないが、当時はまだ大らかで奔放なことが許されていた。

 海に釣りに行って、何も釣れずに落ち込んでいると、いつも近くのおじさんがやってきて浮きの位置を変えて、撒き餌をしてくれた。すると途端に釣れ始める。不思議だった。ほんのちょっとのことなのに、まるでその日一日の成果を変えてしまうおじさん。どんどん釣れ始めて笑顔で横を見ると、白髪交じりのおじさんが折りたたみ式の小さな椅子に座って、にやりとこっちに向けて笑う。
 そんな時、ぼくは大人ってすごいなあ、といつも思っていた。

 雨の日はこうするんだ、とおじさんは教えてくれる。やっぱりそれで釣れるようになる。
 糸が絡まると、見たことのない奇妙な道具を箱から出してきて、あっという間に仕掛けを元に戻してくれる。
 寒い時には「坊主、ほら」と缶コーヒーを放り投げてくれる。取り損なってコーヒーを海に落としても、豪快に笑って、またどこからともなく別の缶コーヒーを取り出して、またそれを投げてくれる。どんな寒い時も、おじさんの缶コーヒーは絶えず温かかった。
 ぼくが一匹も釣れない日も、おじさんのクーラーボックスにはいつも魚が入っていて、帰ろうとすると、その中から一番大きな鯛を惜しげもなくくれた。

 ある時、近くの岸壁で釣っていた同い年くらいの男の子が何かの拍子に海に落ちた。ぼくはたまたまその瞬間を見ていて、「あ——!」と大声を上げて立ち上がったが、その瞬間にザブンというすごい音が横でした。横を見ると、おじさんの姿がなく、必死に海を見渡すと、落ちた子の方へ向けておじさんは泳いでいた。
 おじさんだけじゃなかった。ほかにもあっちこっちでザブンという音が上がり、色んな方向から何人もの「岸壁のおじさん」が落ちた子供の所に向かっている。怖い一瞬だったが、壮観な一瞬でもあった。まもなく子供は助け上げられ、ことなきを得た。
 おじさんは泳いで戻ってきたあと、「濡れちまったから帰るわ」と笑いながら引き上げていった。

 大人ってすごいなあ、と思った。

 漠然と、いつかぼくもその「大人」の一員になるのだということは分かっていた。でも、蝶々結びもうまく結べないような自分を、あの「なんでも知っている大人」とどうしても結びつけることができず、自分の歩く先が同じところに通じていることがどうしても信じられなかった。

 高校に行けば、大学生になれば、あるいは社会に出れば、きっと「大人」になれるのだと思っていた。女の人と付き合うようになれば、あるいはお金を稼げるようになれば、もしくは「さん付け」で呼ばれるようになれば、大人になるのかと思っていた。

 そうして、ずっと「大人」を目指して生きてきた。しかし、最近友達の髪の毛に白髪が交じっているのに気が付いて、はたと衝撃的なことを悟った。
 いつの間にか、ぼくはもう、あの白髪交じりのおじさんの方になっていた。
 コーヒーをもらう子供の方じゃない。なんでも知っていて、どんな天気の日でも、どうすれば魚が釣れるのか、知っていなきゃいけないおじさんの方になっていた。

 気が付いて、思わず焦った。
 今度釣りに行って、横に釣れずに落ち込んでいる子供がいたら、その浮きをちょっと調整しただけで、釣れるようにしないといけないのはぼくなのだ。どこかから魔法のようにコーヒーを取り出して、渋い笑みで「坊主、ほら」とコーヒーを投げないといけないのだ。子供が海に落ちたら、それを助けに行くのはぼくの役目なのだ。
 でも、ぼくは大人になる過程のどこでも「コーヒーを温かいまま何本も隠して保温しておく方法」も「溺れている子供を助ける方法」も習った覚えがない。渋い笑みの浮かべ方も、子供を上手に「坊主」と呼ぶ方法も教わっていない。それどころか、浮き釣りの知識は、あの頃の方がまだだいぶ持っていたような気がする。

 釣り糸の浮きの位置はおろか、自分の浮きの位置も未だに定まっていないぼくに、なんのアドバイスができるだろうか。魚が釣れない日は、それがなぜかも分からずにずっと海を見ているぼくは、むしろ今もあのおじさんが助けてくれるのを待っている。

 あの岸壁のおじさんになりたい。

 そんなことを最近よく思う。いつだって魚を釣って帰れるおじさんになりたい。釣れすぎて、隣にいる子供に一番大きな魚を余裕であげられる、あのおじさんになりたい。雨の日も、風の日も、気まぐれに釣りに行くと必ずそこにいる、日々変わらない人になりたい。

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