パイポ

本日のワンパラ(2012/12/25)

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「サンタクロースの存在証明」

【ネタバレ注意】
このコラムには人生のネタバレがひとつ含まれています。あなたがまだ小学校二年生以下、あるいは12月24日現在、トナカイの蹄の音が屋根に着地するのを待っている場合、このコラムはもう少し夢を失ってからお読みください。

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 小学校四年生の頃、学級新聞の編集長に任命されて「サンタクロースはいるのか?」という記事を一面に書いて議論を呼んだことがある。――もちろん、それは「サンタクロースがいるのかどうか」という議論ではなく、「小四にもなって、まだサンタを信じている向山はそろそろ三階の窓から下の『希望の池』に落とした方がいいのではないか」という議論だ。幸いにもこの議論の悪い方の結論は免れたのだが、実はこの時、ぼくは「サンタがいる可能性」をまだ本気で信じていた。

 というのも、当時住んでいたのは親の勤め先の家族寮のようなアパートで、そのアパートの大人全員がグルになって、子供にサンタを信じ込ませていたのである。クリスマスイブになると、毎年ぼくら子供はどこかの世帯の一室に集められ、そこでケンタッキーと小僧寿司を山のように与えられて、否応なしにクリスマスパーティーに参加させられた。パーティーの裏側で、それぞれの両親のどちらかがこっそり会場を抜け出して、自分のアパートに戻り、サンタのプレゼントを置いてから、またこっそり戻ってきて「ずっとそこにいた」ようなふりをするためだ。

 何しろ狭いアパートに十数人も詰め込まれた状態である。親の片方が五分くらいいなくなったところで気が付くはずもない。パーティーが終わったあと、真っ暗な家に戻って、天井の照明の紐を引くと、ひとけのない闇の中から忽然とプレゼントが現れる。ツリーの下に用意しておいたサンタ用のコーヒーは飲み干され、ベランダのドアはわずかに開いている。その隙間から入った冬の外気で、部屋の中はひんやりとしていた。――それはもう、子供にとっては迫真のリアリティーだ。確かにその瞬間、部屋の中に誰かがいた気配を感じ取れ、そのかすかな気配に漠然と理解を超えた大きな存在を感じた。

 そこまでに親たちが張っていた巧妙な伏線も見事だ。まず十二月に入ると、サンタ宛にほしいプレゼントをお願いする手紙を書かされる。中身は日本語だが、住所はわざわざ英語で「to North Pole(北極)」と書いて、切手を貼って、自分の手でポストに投函するのが習わしとなっていた。さすがに一旦ポストに入れた封筒を奪還するのは、大人でも難しいのは分かっていたし、毎日郵便受けを確認し続けたが、手紙が返ってくることはなかったので、間違いなく配達されているのだと確信した。

 クリスマスイブの夜にはコーヒーを自分で煎れて、ツリーの下に供える。この時にクッキーを二つ付けるのもうちの習わしのひとつだ。コーヒーは冷たくならないように魔法瓶に入れて、その横にマグカップを添えておく。我が家のルールでは「子供は熱湯は扱ってはいけない」ということになっているのに、この時だけは特別にコーヒーを淹れさせてもらえることが、またなんとも説得力があった。
 パーティーに出かける前、とどめを刺すように、父親が真剣な表情で「ちゃんとベランダの鍵をはずしたか。はずさないとサンタが入れないぞ」と注意を忘れない。——そう。うちのアパートには煙突がないので、ベランダからサンタが入ってくることになっている。たまたまパトカーが通りがかったら、間違いなく現行犯逮捕されそうなサンタだが、ぼくは慌ててドアのロックを確認した。

 パーティーから帰ってくると、いつも魔法瓶は空になっていて、マグカップにはコーヒーを飲んだ跡があり、ぼくと妹の名前が書かれたプレゼントが置かれていた。――しかも、同じ現象がどの家でも起きていることが後日、子供同士の会話で判明する。ぼくら子供はもちろんサンタを信じてはいたが、その現実感はもはや疑う余地がないほどだった。むしろ間違っても疑うなんてできない。何しろ相手はいつでもベランダから侵入できる巨漢のオヤジだ。うっかり「サンタいない」なんて言ったら、何をされるか分かったものじゃない。

 ある時、パーティーの最中にこんなことがあった。
 みんなで野球盤をして遊んでいる時、いきなりカーテンの閉まったベランダからガタガタとすごい音が鳴り響いた。思わず「サンタだ!」と誰かが叫ぶと、全員がとっさにパニック。子供ならサンタ登場に喜びそうなものだが、リアルな演出にすっかり芯から超常現象を疑っていなかったぼくらには、それはいきなりの未知との遭遇だった。――ちょっと想像してみてほしい。団地の三階のベランダから、いきなりすごい音がするのである。楽しいとか、ファンタジックとか、そういうのじゃなくて、完全にホラーだ。このカーテンの向こうにあのサンタが!?と、誰もが凍り付いた。小さい女の子は悲鳴をあげて泣き出し、親たちも身構える中、一番勇気のあったTくんがとっさにカーテンを開くと、外のベランダには誰もいなかった。

 後年知ったのだが、その年にパーティーをやっていたW家のお父さんがWくんに見付からないように、隣の家からベランダ越しにWくんの部屋に入ろうとしたらしく、うっかり足を滑らして洗濯機に激突したらしい。――ベランダ越しといっても、柵の外を伝って入るので、軽く命がけである。しかもTくんがカーテンを開けた時、「サンタのことがばれる!」という危機感から、Wさんはとっさにベランダの外にぶら下がって姿を隠したのだそうだ。もしその時に足でも滑らせていたら、次の日、新聞に美談として載ったのか、世紀の親馬鹿として載ったのか、今でもちょっと気になる。

 そんなわけで、ぼくは学級新聞に「サンタはいるのではないか」と全力で書いて、四年生男子全体の笑い物になり、あだ名が三ヶ月間「ルドルフ」になった。最初は「ロマンチック」とか言っていた女子も、ぼくがマジで言っていることを悟ると、笑みがかわいそうな人を見る目に変わっていった。冬の寒い中登校して、鼻が赤くなっていると、「どこにソリ停めたんだよ、ルドルフ」と嘲笑されたことも一度や二度ではない。

 それでもぼくはサンタを信じ続けた。アパートの子供たちが一人一人信じるのをやめていったあとも、中学生になったぼくは一人、サンタを信じ続けた。もちろん、そう主張した方がプレゼントをもらい続けることができるから、という打算もあったが、自分の頑なな一部が、子供時代を手放したくない一心でサンタの存在にすがりついていたのも本当だと思う。「サンタがいない」と認めてしまったら、改造手術を受けて変身することも、超磁力戦艦で星の海を旅することもあきらめないといけなくなる気がした。

 そうして、サンタの存在にすがりつきながら、十代を過ごした。二十代になって、東京で一人暮らしをするようになってからも、クリスマスの時期にはいつも「どう考えたらサンタの存在は可能になるか」ということを思案し続けた。大学の社会学のレポートも「サンタは実在する」という論を書いたのだが、先生からは「素敵なレポートだけど、まじめにやろうね」と言われた。

 最後にサンタがぼくのところに来てから早三十年。――ぼくは今もまだサンタがいるのかどうかを考え続けている。
 もちろん、アパートのベランダにいたのがWさんだったことを今は否定しない。当時の舞台裏も親たちから全部聞かされている。ぼくが送ったサンタ宛の手紙は、世界中から来るサンタ宛の手紙と一緒に、あるヨーロッパの郵便局に集められていることも後々知った。大人になるに従って襲ってくる圧倒的な現実——受験、就職、結婚……実人生の重さを前に、一時は打ちのめされて、サンタの存在をあきらめかけたこともあった。でも、それでも説を変え、想像を広げて、サンタの存在を信じ続ける努力だけはしてきた。
 2012年現在、ぼくが唱えているのは以下のような説だ。

 たぶん、赤い帽子をかぶったヒゲのおじさんは実際にはいないのだろう。一晩で世界中の子供に欲しい玩具を配るのなんて、ヤマト宅急便が総力を挙げでもしなければ、おそらく不可能だろう。一年中、世界の子供たちの態度を見張り続けるのは、スパイ衛星やドローンを駆使した諜報機関でも難しいはずだ。——だから、ケンタッキーの看板に描かれているようなサンタは実在しないのかもしれない。

 ただ、サンタがそういうものでなかったとしたらどうだろう。
 世界中の多くの親が子供の喜ぶ顔を見たくて、サンタのふりをするのは果たして自分の意思なのだろうか。ミツバチは自分の意思で蜜を運んでいるつもりだろうが、その実、そういうように遺伝子にプログラムが埋め込まれている。世界中のどこのミツバチも、教えられることなく同じ事をきちんと行う。――「サンタ」の概念もそんなように人間の遺伝子にあらかじめプログラムされたものだとしたらどうだろう。そう考えれば、うちの父も、Wさんも、みんな確かに「サンタ」の一人に違いないのだ。

 人間が誕生する数億年前、北極で赤い帽子をかぶったおじさんたちが集まって会議をした。人類のプログラムの内容を決めるためだ。赤い帽子のおじさんたちはみんなまじめで、とても現実的だ。——「弱肉強食」、「生存本能」などの実用的なプログラムがどんどん遺伝子に組み込まれていく。でも、その中に一人、悪ふざけが好きな心優しい「ニコラスおじさん」がいた。あまりいい人だったのでみんなからは「聖ニコラス」と呼ばれていたかもしれない。
 ニコラスは「ホーホー」と笑いながら、「せっかくだからちょっとは夢のあることもプログラムに入れようじゃないか」と言い出した。「ひとつくらいは無条件でお互いに優しくなれる日を入れてもいいんじゃないか」と。「その日だけは、みんなで集まって楽しいことをして、子供たちが笑顔いっぱいになるように、プレゼントを渡し合ったらどうだろう」
 ほかのまじめな赤い帽子のおじさんたちはニコラスの提案を笑い飛ばした。「そんなことをしてなんになる」「無意味だ」——あっさり否定されたニコラスは、それでもあきらめなかった。気付かれないようにこっそりプログラムの隅に、小さな悪戯を仕掛けた。「目に見えないもの」は信じないようにできているはずの人間が、時としてバグのように、急に神様やサンタクロースのような存在を信じることがあるのは、あるいはその「聖ニコラス」の悪戯のせいなのかもしれない。

 この季節になると、急に昔の友達に会いたくなったり、みんなで集まって騒ぎたくなったり、無性に自分の家族が愛おしくなったりするのは、その悪戯のせいだったらどうだろう。

 そう考えないと、この世界には説明のつかないことがけっこうたくさんある。
 子供に小さな夢を見せるためだけに、命まで賭けようとしたWさん。胃を悪くしながら、毎年魔法瓶のコーヒーを一気飲みしていたうちの父親。今も百万通以上子供たちから届く「サンタ宛」の手紙の山。そして、それを返却して悲しませないように、なんとか処理を続ける世界中の大人たち。
 サンタを信じている子供に「サンタなんていない」と言うことは大人社会ではなぜか無言のタブーとなっている。誰に言われたわけでもないのに、なんとなく言ってはいけない極秘事項のように扱われることがある。仮面ライダーや巨大ロボは「いない」とあんなに簡単に言うことができるのに、サンタだけなぜ――?

 子供に束の間、夢を見せるためだけの行事。昔のうちの職員アパートだけじゃない。この惑星の至るところで、同じ伝説を子供に信じ込ませようと、肌の色も、人生観も違う大人たちが、この数千年の間、必死になってきた。その努力がこの季節を毎年魔法のように満たしている。今の時期に、一瞬でも「魔法のような瞬間」を感じたことがないと、言い切れる人はいるだろうか。

 でも、あるいはサンタがいない方がもっとファンタジックなことなのかもしれない。――何しろそうだとしたら、この壮大なるファンタジーは人間が作り出したものになるからだ。お互いを傷付けたり、ものを奪い合ったりするだけではない。人間はこんなにも長い間、同じ夢を見続けることだってできる。もちろんぼくはサンタを信じているが、ぼくだけじゃない。星の数ほどの人が信じてきたからこそ、サンタは今も存在し続けられるのだ。

 毎年この季節になると、小学校四年の時に教室の隅で「サンタいるもん」といじけているあの時のぼくにこの話をしてやりたくなる。もっとも、本当にそんなことをしたら、たぶん「おっさん何言ってるの? サンタ、普通にいるって。コーヒー好きなんだよ」と言い返されるだけだろう。何しろあの時のぼくには理屈などいらないのだ。心で分かっていた。サンタがいることを。――この世界が必ず、素晴らしいもので溢れかえっていることを。

2012年12月24日
向山貴彦

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