パイポ

本日のワンパラ(10/02/15)

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「もうひとつのスタンダード」

 ずっと三十年近く頭にひっかかっていたことがあった。
 アイスクリームのバニラ。
 どんなところでも必ずある味、バニラ。アイスクリーム界の標準。「プレーン」と限りなく同義語のバニラ。「アイスクリーム」の横に特にフレーバーの表記がなければ、自動的にバニラだと解釈されてしまうほどメジャーな味――それがバニラ。
 実際にはバニラビーンズからとれたれっきとした香料で、たくさん入れると食べられないぐらいきつい匂いの香料なのに、ほとんど無色だったせいか、しっかりアイスクリーム界の「プレーン」の位置に収まっている味――それがバニラ。
 実際、たまにアイスクリームには「ミルク」という味が存在する。これこそが明らかにアイスクリームの「プレーン」であるべきが、しっかりその座を奪ってしまったバニラ。

 このバニラが、実は長い間、ぼくはぴんとこなかった。
 幼い頃、両親の仕事の関係で一時期アメリカに住んでいた頃、ぼくはそれはもう尋常じゃないほどアイスクリームを食べていた。2ディップ、3ディップはあたりまえの世界で、下手すると朝ご飯と一緒にアイスクリームを食べていた。当時のアメリカはまだ「ヘルスコンシャスくそくらえ」の時代で、いかに自分が不健康かというのをアピールするためだけに、人工着色料をホットドッグに振りかけるのがクールな時代だったので、そんなことにあまり疑問も感じなかった。

 そして、この悪癖を助長してくれたのが、友達だったケーヒーさん一家である。ケーヒーさん一家はとても素敵な人たちなのだが、とにかく良く食べる。日本人の「良く食べる」とは違う次元に「良く食べる」。何しろケーヒーさん一家六人は、全員の体重を合わせると1トンを超える。しかも、その六人のうち二人は当時年頃の娘さんだった。
 ケーヒーさんの家に食事に招かれると、それはもうすごいことになる。一人につき、一匹チキンが出てくる。テーブルの中央に漏られたマッシュポテトの山で向かい側に座っている人の顔が見えない。(しかし、食事が進むと急速に見えるようになる。)そして、デザートになると台所の片隅にある巨大な専用フリーザーに連れて行かれ、そこにびっしりと何十種類も詰まったアイスクリームの山から好きなフレーバーを選ばせてもらえる。例えばチョコレートを選んだとしよう。子供なら両手でやっと持てるような巨大な容器を渡される。当然それをみんなで分けるのだろうと思いきや、大きなスプーンを渡されて「はい、次の人選んで」と言われる。
 ケーヒーさん本人に至っては、その上にチョコシロップやナッツ一袋とかををかけて食べていた。しかも、添えられた飲み物はコーラの1リットルボトル。カロリーは天文学的な数字に達していたことだろう。ケーヒーさん一家の一番の悩みはトイレの便座が定期的に割れてしまうことで、一番の自慢は風呂の水が風呂桶の三割ですむことだった。

 とにかくそんな無茶なケーヒーさん一家だったが、いつも出てくる食事はやたらとおいしかった。自家製の燻製小屋が庭にあって、そこで自分で挽いたミンチ肉のパティーを黄金色になるまで一昼夜いぶし、それに庭でとれた野菜を挟んだハンバーガーは絶品だった。それにケーヒーさん特製のフライドポテトがつく。彼らは一人でじゃがいも六個ぐらいのポテトを食べるので、いちいち細く切っていると作るのも食べるのも面動らしく、じゃがいもは丸のまま揚げていた。片手で持てないフライドポテトだったが、それにチーズとケチャップを狂ったようにかけてあるのが最高だった。
 何よりも忘れられないのがアイスクリームだった。とにかくやたらとおいしいアイスクリームで、ぼくの記憶が正しければ、それはケーヒーさんがひいきにしている小さな町のアイスクリーム屋で、真っ白の容器にはただ「ミント」とか「チョコ」とか、ペンで走り書きだけがしてあった。
 問題はここからなのだが、ぼくは当時、いつもケーヒーさんの家ではバニラを選んでいた。というのも、とんでもない量を食べることになるので、ほかの味だと途中で飽きてしまうからである。食後はみんなで居間の暖炉の前に集まって、全員アイスクリームのバケツを手に抱え、談笑しながらもくもくとアイスを食べることになる。最初アイスがカチカチなこともあって、食べ終わるのに一時間はかかるので、最後の方は食べるというよりもむしろ飲む感じになる。
 このバニラアイスクリーム、今でもはっきり味を覚えているのだが、とてもとてもうまかった。何かほかのアイスとは次元の違ううまさだった。

 ところが日本に帰ってきて以来、何百回とバニラアイスをあらゆるところで食べて来たのに、未だにあの時のアイスの味と似ていた試しすらない。雑誌などで紹介している有名店で期待してバニラアイスを注文しても、いつも何かが違う。やはり圧倒的にケーヒーさんのアイスの方がうまいのだ。
 ある時期から、それはもうたぶん自分が思い出と一緒に美化した味で、本当はすべて錯覚なのではないかと思っていた。あれはぼくの中だけにある、幻の味だったのではないかと。

 そうして、何十年が過ぎ、ぼくはほとんど完全にそのアイスのことを忘れた。
 時は過ぎて、2009年、夏。「絶叫仮面」の追い込みで疲れたねこぞうがアイスを食べたがっていたので、近所の西友までハーゲンダッツのミニカップを買いに出た。「味はなんでもいい、おいしそうなやつ」という指示を受けていたので、適当にフリーザーの中を物色して手当たり次第に三つほどカップを買って帰ってきた。
 ぼくは遠慮していたのだが、ねこぞうから「買ってきたうちのひとつがめちゃくちゃおいしいから食べてみな」と言われて、なにげなく一口もらって食べた。
 その瞬間、ものすごい衝撃に襲われた。幻だと思っていた味が、ケーヒーさんのアイスの味が、口の中に確かに広がった。あの独特のバニラの味だった。そして、その時、初めて思い出した。そうだ。たしかあのバニラには小さな茶色の粒々が入っていた。
 思わずねこぞうからカップを取り上げて、もう何口か食べてみたが、間違いなかった。これこそが三十年探していた、ケーヒーさんのアイスクリームだった。
 慌ててカップのラベルを見てみると、そこには「バニラ」ではなく「メープルクッキー」と書かれていた。メープル。そうだ。そういえば、ケーヒーさんはその白いアイスを「バニラ」とは読んでいなかった。ただ、バニラがなく、唯一あった「プレーン」なアイスがそれだったから、ぼくは自動的にそれがバニラだと思い込んでいた。でも、記憶の底からゆっくり、その容器に書いてあった本当の名前が頭に浮かんできた。
 メープル。
 そうだ。あれはメープルのアイスクリームだったのだ。
 バニラよりも香り豊かで、それでいてさっぱりとし、後味が絶妙なメープル。ぼくの住んでいたアメリカの地方がメープルシロップを好む文化だということも同時に思い出した。あの田舎のアイスクリームショップではきっと「プレーン」はバニラではなく、メープルだったのだ。

 なかなかコンビニなどでは見かけないのだが、ハーゲンダッツのアイスクリームを大量に置いているスーパーを見つけたら、ぜひ味見してほしい。バニラに隠れて、歴史の闇に葬られそうになっているもうひとつのアイスクリームのスタンダード、「メープル」を。

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