「年賀状考」
元旦。
郵便受けを開けると、今年の年賀状。
自分が通ってきたいろんな時期に巡りあい、離れていった人たちからの年賀状。一枚めくるごとに違う時期の自分が垣間見え隠れする。
「おっす、生きてるか?」から「おかげさまで今年も元気です」まで、とても同じ一人の人間に宛てられたとは思えないほどトーンの違うメッセージ。「向山さん」「向山くん」「向山先生」「むこちゃん」「むこやん」「貴彦くん」「テディー」「テディーくん」「アニキ」「てっちゃん」——いろんな人から見たぼくがそこにいる。みんなぼくで、全部ぼくの一部だ。
いつも元旦にきっちり年賀状をくれる人。いつも一番最後に駆け込みで届く人。筆無精で一回も年賀状をくれたことない人。どれも性格が良く出ていて、みんなぼくの大切な人たちだ。
いろんな理由から年賀状を出せなくなってしまった人もいる。住所が分からなくなってしまったり、残念ながら付き合いがなくなってしまったり……そして、どんなに日本の郵便局が優秀でも、もう決して配達できない場所に行ってしまった人たちもいる。
年賀状の内容も時代と共にずいぶん変わって来た。
つたない文字と漫画のイラストばかりだった小学校時代。どのみち毎日顔を合わせる人ばかりだったので、ギャグとしてしか年賀状を送っていなかった十代。みんな生きるのに忙しすぎて、極端に年賀状が減ってしまった二十代前半。毎年住所の変更のお知らせが多かった二十代後半。「結婚しました」のお知らせが主流だった三十前後。そして、そのあとに来た爆発的な数の子供の写真メインの年賀状。四十の今、年賀状の80%が子供の写真なのは、実に嬉しい悲鳴。
ただ、今年からまた少し傾向が変わったことも感じている。
今年は喪中がとても多かった。今までも喪中は必ず毎年あったものの、違っているのは、亡くなった人が祖母や祖父ではなく、親兄弟だったこと。
きっと、また人生は大きく違うフェイズへと移行し始めているのだろう。
このハガキの束はぼくが生きてきたことの証だ。通ってきた道の地図だ。
「年賀状なんて古くさい習慣」とバカにしていた若い時期もあったけれど、この厚さわずか1ミリのカードが、それぞれのぼくの過去から届くタイムマシーンのようなものだと気がついてから、とても大切に思うようになった。
もう戻れない世界からやってくる束の間の邂逅。
みんながこの世界のどこかで、今も元気に生きているというささやかな証拠。
あけましておめでとうございます。向山です。本年もどうぞよろしくお願いします。