パイポ

サンタクロースの存在証明

とあるネットのニュースによれば、昨夜、スタジオ上空をサンタが通過した模様。

と、いうところから、思い出しました。個人的にとても好きな、このコラム。

今日のこの日に、お蔵だしさせて頂きます。

Merry Christmas & Happy Reading!!

愛を込めて

猫蔵

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【ネタバレ注意】

このコラムには人生のネタバレがひとつ含まれています。あなたがまだ小学校二年生以下、あるいは12月24日現在、トナカイの蹄の音が屋根に着地するのを待っている場合、このコラムはもう少し夢を失ってからお読みください。

いいですか?

それでは、どうぞ!

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サンタクロースの存在証明 文:向山貴彦

小学校四年生の頃、学級新聞の編集長に任命されて「サンタクロースはいるのか?」という記事を一面に書いて議論を呼んだことがある。――もちろん、議論の内容は「サンタクロースがいるのかどうか」ではなく、「小四にもなって、まだサンタを信じている向山はそろそろ三階の窓から運動場の『希望の池』に落とした方がいいのではないか」という議論だ。幸いにもこの議論の悪い方の結論は免れたのだが、実はこの時、ぼくは「サンタがいる可能性」をまだ本気で信じていた。

というのも、当時ぼくが住んでいたのは親の勤め先の家族寮のようなアパートで、そのアパートの大人全員がグルになって、子供を騙していたからである。彼らの手口はこうだ。毎年クリスマスイブになると、「パーティーをする」と言って、子供達を全員アパートの一室に集める。そこでケンタッキーのチキンと小僧寿司の手巻きを山のように与え、子供達が興奮状態に陥っている間に、両親のどちらかがこっそりと会場を抜け出して自宅に戻り、ツリーの下にサンタのプレゼントを置いてから、またこっそり戻ってきて「ずっとそこにいた」かのようなふりをするのだ。子供にしてみればパーティーの間、親は絶えず側にいたはずなので、真っ暗な家に戻って、天井の照明の紐を引くと――ひとけのない闇の中から忽然とプレゼントが現れる衝撃! しかもツリーの脇に用意しておいたサンタ用のコーヒーは飲み干されて、ベランダのドアはわずかに隙間が開いている。そこから入った冬の夜の外気で部屋の中はひんやりとしていた。――それはもう、子供にとっては迫真のリアリティーだった。確かにその瞬間、部屋の中からは誰かがいた気配が感じ取れ、その残像のような気配に漠然と自分の理解を超えた大きな存在を感じた。

今となって分かることだが、彼らはそこに至るまでの伏線もうまく用意していた。まず毎年十二月に入ると、サンタ宛に欲しいもののお願いの手紙を書かされる。中身は日本語だが、住所はわざわざ英語で「to North Pole(北極)」とするよう指示され、切手を貼って、自分の手でポストに投函するのが習わしだった。ポストに入れた手紙を奪還するのは親でも無理なことは、さすがに小学生でも分かる常識。クリスマスまで毎日ポストを確認していたが、手紙が返ってきたことはなかったので、間違いなく配達されていた。

さらに伏線は続く。クリスマスが近付いてくると、何をするにも大人たちに「サンタが見てる」と言われ始める。家にいても「サンタ見てるよ、手を洗いなさい」、となりの家にいても「玩具片付けないとサンタが怒るよ」などと注意される。子供にとっては軽い脅迫である。この時期の親の台詞はもう「サンタ」が接頭語か接尾語のようになっていて、だんだんサンタが地縛霊のように思えていた。いつどこから見られているのかも分からないから、十二月のアパートの子供たちはみんな聖人君子のように生きていた。

そしてクリスマスイブの夜になると、一家でパーティーに出向くのだが、その前にコーヒーを自分で煎れ、クッキーを二つ付けてツリーの下に供えさせられる。コーヒーは冷たくならないように魔法瓶に入れ、その横にマグカップを添えておくのがお約束だった。我が家のルールでは「子供は熱湯を扱ってはいけない」はずなのに、この時だけは特別に自分でコーヒーを淹れさせてもらえるのが、またなんとも説得力がある。――そして、とどめを刺すように、父親が真剣な表情で「ちゃんとベランダの鍵をはずしたか。はずさないとサンタが入れないぞ」と注意を促してくる。そう。うちのアパートには煙突がないので、サンタはベランダから入ってくることになっていた。たまたまパトカーが通りがかったら、間違いなく現行犯逮捕のサンタだ。
 
その上でパーティーから帰ってくると、魔法瓶は空になっていて、マグカップにコーヒーを飲んだ跡があり、一ヶ月前に頼んだプレゼントがツリーの下に間違いなく存在している。――しかも、同じ現象がどの家でも起きていることが後日、子供同士の会話で判明するのだ。もはや疑う余地などない。むしろ間違っても疑ってはいけない気にさせられる。何しろ相手は留守の時にいつでもベランダから侵入できる巨漢のオヤジである。うっかり「いない」なんて悪口を言ったら何をされるか分かったものじゃない。

このように、親たちの作戦は実に巧妙だった。だが、いつもいつもうまく行っていたわけではない。ある時、パーティーの最中にこんなことがあった。

みんなで野球盤をして遊んでいる時、いきなりカーテンの閉まったベランダの外でガタガタとすごい音が鳴り出した。思わず「サンタだ!」と叫ぶと、全員とっさに大パニック。子供なら喜びそうなものだが、現実は違っていた。ちょっと想像してみてほしい。外から入れないはずの団地の、三階のベランダから、いきなりすごい音がするのだ。楽しいとか、ファンタジックというより、ただのホラーでしかない。小さい女の子は悲鳴をあげて泣き出し、親達でさえみんな身構える中、一番勇気のあったTくんがカーテンを開くと――そこには誰もいなかった。室内は阿鼻叫喚、つ○だじろうの漫画より怖い一幕だった。

後年知ったのだが、それはパーティーをやっていたW家のお父さんが、Wくんに見付からないように、隣の家からベランダ越しにWくんの部屋に入ろうとして、うっかり足を滑らせ洗濯機に激突したのそうだ。――ベランダ越しといっても、三階の柵の外を伝って入るので、軽く命がけである。しかも「サンタのことがばれる!」と思ったお父さんは、とっさにベランダの外にぶら下がって身を隠したらしい。もし下に落ちていたら、次の日、新聞に美談として載ったのか、世紀の親馬鹿として載ったのか、今でも若干気になっている。

そんなわけで、ぼくは学級新聞に全力で「サンタはいるのではないか」と書いて、四年生男子全体の笑い物になり、あだ名が三ヶ月間「ルドルフ」で固定された。最初は「ロマンチック」とか言っていた女子も、ぼくがマジだということを知ると、その笑みが苦笑に変わっていった。女子は本当にロマンチックなことが好きなのではなくて、適度にロマンチックなことが好きなのだということを知ったのだけが、この時の唯一の収穫だったと思う。

それでもぼくはサンタを信じ続けた。アパートの子供たちが一人一人信じるのをやめたあとも、中学生になったぼくは一人、サンタを信じ続けた。もちろん、そう主張した方がプレゼントをもらい続けることができるから、という打算もあったが、自分の頑なな一部が、子供時代を手放したくない一心でサンタの存在にすがりついていたのも本当だと思う。「サンタがいない」と認めてしまったら、改造手術を受けて変身することも、念動力で不良たちをなぎ倒すことも、超磁力戦艦で星の海を旅することもあきらめないといけなくなる。本当はこの世界には目に見えないすごいものがいっぱいあって、それをぼくらは普段知らないだけだということを、信じ続けることができなくなってしまう。

そうして、サンタの存在にすがりつきながら、十代をやり過ごした。東京で一人暮らしをするようになってからも、クリスマスの時期にはいつも「どうしたらサンタは存在できるか」を考え続けてきた。最後にサンタがぼくのところに来てくれてから早三十年。――今でも、ぼくはまだ考え続けている。

当時の舞台裏は親たちから全部聞いている。アパートのベランダにいたのがWさんだったことは否定しない。ぼくが送った北極宛の手紙は全部、あるヨーロッパの郵便局に集められていたことも知った。大人になるに従って襲ってくる圧倒的な現実を前に、一時は打ちのめされて、サンタの存在をあきらめかけたこともあった。でも、それでも説を変え、想像を広げて、サンタの存在を信じ続ける努力をしてきた。2012年現在、ぼくが信じているのは以下のような説だ。

たぶん、赤い帽子をかぶったヒゲのおじさんはいないのだろう。一晩で世界中の子供に欲しい玩具を配るのは、ヤマト宅急便が総力を挙げた場合を除いて、不可能かもしれない。一年中、世界の子供たちの生活態度を見張って、良い子と悪い子を見分け続けるのも、最新鋭のスパイ衛星やドローンを駆使した諜報機関でも無理な話だ。そもそも予算が下りないと思う。

ただ、サンタがそういうものではなかったとしたらどうだろう。

世界中の多くの親が子供の喜ぶ顔を見たくて、サンタのふりをするのは果たしてただの習慣なのか。ミツバチは教えられなくても蜜を運ぶ。自分の意思で蜜を運んでいるつもりだろうが、その実、そういうように遺伝子にプログラムが埋め込まれている。世界中どこのミツバチもそれは同じだ。――もし「サンタ」もそんなあらかじめプログラムされたものだとしたらどうだろう。そうしたら、ぼくの父も、Wさんも、みんな確かに「サンタ」の一人なのだ。

もう少し想像を広げてみるとすれば――例えば、人間が生まれる前、北極で赤い帽子をかぶったおじさんたちが集まって、最初にそのプログラムを作っていたのだとしたら? その中の一人が、悪ふざけが好きな心優しい「ニコラスおじさん」で、「せっかくだからちょっとは夢のあることもプログラムに入れようじゃないか」と言い出したとしたら? 
 
「一日くらいはお互いに優しくなれる日を入れてもいいんじゃないか?」
「その日だけは、なんとなくみんなで集まって楽しいことをして、いやなことや悪いことも忘れて、子供たちにも笑顔いっぱいになるプレゼントを渡す日にしたらどうかな?」

たぶん、その提案はほかのまじめな赤い帽子のおじさんたちに拒否されたことだろう。ちょうど、小四のぼくがみんなに笑われたように。でも、あるいはニコラスは、プログラムの隅にこっそり小さな悪戯を仕掛けたかもしれない。目に見えないものを信じないはずの人間でも、時としてバグのように、神様やサンタクロースのような存在を信じる時があるのは、このニコラスの悪戯のせいかもしれない。ぼく個人としても、この季節になると、急に昔の友達に会いたくなったり、みんなで集まって騒ぎたくなったり、無性に自分の家族が愛おしくなったりする。それが全部、その壮大なバグのせいだったらどうだろう。
 
そのバグのコードネームが「サンタクロース」だとぼくは考えている。

そう考えないと、この世界には説明のつかないことがたくさんあるのだ。子供に小さな夢を見せるためだけに命まで賭けようとしたWさん。胃を悪くしながら、毎年魔法瓶のコーヒーを一気飲みしていたうちの父親。今も百万通以上世界の子供たちから届く「サンタ宛」の手紙の山。そして、それを返却して子供を悲しませないために、なんとか処理し続ける世界中の国の大人たち。サンタを信じている子供に「サンタなんていない」と言うことは、大人社会では無言のタブーとなっている。誰に言われたわけではないが、示し合わせたように親達はみんなそうする。仮面ライダーや巨大ロボはいないとあんなに簡単に言うことができるのに、サンタだけなぜ――?

ただ子供に夢を与えるというためだけの、大きな行事。うちのアパートだけじゃない。この惑星の至るところで、同じ伝説を子供に信じ込ませようと、肌の色も、人生観も違う大人たちが、数千年の間、必死になってきた。本当にそれはただの偶然なのだろうか。この季節に、一瞬でも魔法のような瞬間を感じたことがないと、あなたは言い切れるだろうか。

でも、あるいは「サンタはいない」という方が、もっとファンタジックなことなのかもしれない。――何しろそうだとしたら、この壮大なるファンタジーは全て人間が作り出したものだからだ。人を殺したり、争って国を滅ぼしたりするだけではない。人間はこんなにも長い間、きれいな夢を見続けることができる。ぼくはサンタを信じているが、ぼく以外にももっともっとたくさんの、星の数ほどの人々が信じてきたからこそ、サンタは今も存在し続けている。

街角からジングルベルが流れてくるこの季節になると、小学校の教室の隅で「サンタいるもん」といじけていた四年生のぼくに、こんな話をしてやりたくなる。でも、本当にそんなことをしたら、たぶん「おっさん何言ってるの?」 と言い返されるだけだろう。「サンタいるって。コーヒー好きなんだよ」と力説する幼い自分の姿が見える気さえする。何しろあの時のぼくには理屈などいらなかった。心で分かっていた。サンタが存在することを。――この世界が必ず、素晴らしいもので溢れかえっていることを。
 
そして、それは大人になっても決して変わらないことを。

メリークリスマス!
2012年12月24日
向山貴彦

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