パイポ

徳を積む、という我欲

人に親切に。

大事なことです。思いやりを持って、人が困っていたら手を差し伸べる。しかし、考えてみてください。「情けは人のためならず」という言葉もあります。親切、それは自分のためにもなるのです。

例えば、大事な資格試験の結果が出る前日。

普段は手が荒れるからしない皿洗いを「あ、おれやるよ」となぜか買って出ていたり。

近々病院の検査結果が届くという時。

疎遠になっている友達に電話して「どうしてる? いや、気になってさ。酒、飲み過ぎてない?」と声をかけてみたり。

明日、入魂の新刊が店頭に並ぶという時。

深夜に突然猫のトイレ砂を全取り替えしてみたり(ここまでくると分かると思いますが、向山の話です)。

以前のコラムで、向山を「気遣いの人」と表現していましたが、彼にとって気遣いは、まさに「人のためならず」な側面もありました。(ちなみに「気遣い」が毎回「き○がい」に見えてしまうのは、気のせいです。)

時々、少女マンガで「どうしてそんなに優しいの?」「君のことが好きだからさ」などというやりとりが見られますが、向山の場合、水道の修理に来た業者さんにまで優しくて、気が付けばひととおり身の上話を聞いた上で夫婦関係のアドバイスをしていたりするので、一概にマンガと同一視することもできません。

さすがにその情けはいらないんじゃないか、という話をしたところ、彼自身「たしかにそうだな」と、納得していました。それから、ふと気が付いたようにこうつぶやきました。

「でも、なんか徳を積みたくて」

人のためにしておけば、悪いことが起きないんじゃないか。わずかな、どうでもいい親切でも、それでささやかな不幸を一つでも避けられるなら避けたい。それくらい、今の幸せが大事なんだ。

だからみなさん、大丈夫です。夢見ていた作家になって、たくさんの人に読んでもらって、支えてもらって、愛してもらって。彼はまちがいなく、最高に幸せな人生を生きました。

人に親切にすることさえ、わがままのひとつ。

平均の神様が、きっとそこにいるから。

(※余談ですが、「情けは人のためならず」ということわざは、誤用の多い例としてよく試験に出題されます。「情けは人のためにならないからやめた方がいい」という意味だと捉えている人が多いためです。実際には、「巡り巡って自分の役に立つ」という意味合いです。以上、時々「こくごのせんせい」な猫蔵より)

平均の神様とスーパー猫の日

※本来ならばスーパー猫の日をお祝いする内容を掲載するはずでしたが、うちは基本毎日が「スーパーハイパーデラックス猫の日」なので、とりあえず向山貴彦のコラムを載せておきます。データがありすぎて、未発表なのか発表済みのものか定かではないのですが、お楽しみいただけたら幸いです。(猫蔵)

平均の神様

世界中に多々ある神様をどのくらい信じているかというと、これはとても難しい質問だ。

四十を超えた今も、まだ「神様」というものがいるのかどうか、ぼくは本当のところ、よく分からない。身近な人が理不尽な不幸に合うのを見るといないような気がすることもあるし、野原一面の花がすべて太陽の方を向いているのを見ると、いるような気がすることもある。正直、四十でこれはけっこうすごいことだと思う。何しろその他の事柄には、もうたいていはっきりと白黒がついたあとだからだ。
 
 UFO:いない
 妖怪:いない
 改造人間:いない
 本当に純真なアイドル:いない

まだ「いるかもしれない」と思っているだけ、かなりすごいことだと思うが、「信じている」と言うには「神様がいたら起きそうもないこと」をたくさん見過ぎた気がする。それでももし神様がいるとしたら、確実にぼくが信じているのはたった一種類だけだ。

「平均」という名前の神様。

人生初期には「ジンクス」というものを割と信じていた。「靴は右足から履くと運がいい」とか、「グーを二回続けて出すとジャンケンは負ける」とか、「ジャンプの間に挟んで買ったエロ本はレジで表面にひっくり返される」とか、けっこういろんな自分ルールを設けていた。ただ、残念ながらそのどれも四十年の実験に耐え抜いたものは存在しなかった。

サイコロを振れば6が続けて三回出ることはある。でも、六十回振れば、たいてい6が出る回数は十回前後だ。四十年、靴を右足から履いていれば、運が悪い日に当たることもある。ましてやサンデーに挟んでも、マガジンに挟んでも、雑誌をひっくり返されることなどしょっちゅうだ。

「平均」の神様はすごい。どんな場合にも必ず降臨する。幸せだけの人生はないし、不幸だけの人生もない。中学の時に「なんでこいつばかりこんなにモテるんだ」と思ってうらやましかったAくんだって、年を取ってからは色々と災難に見舞われている。(モテているから災難にあっているとも言えるが。)

大学の一般教養課程の数学で「平均」についての授業を受けたあと、本当にそれが正しいのかと実際にサイコロを図書館の机の上で300回振ってみたことがある。

一回振っては出た目を記録していくと、最初の頃は3ばかり多く出て「ほら見たことか」と思ったりしたが、出遅れていた目も徐々に追いついてきて、200回を過ぎた辺りでほぼ横一直線に並んだ。それは本当に奇妙な感じで、同じように増えていく正の字を数えながら、思わず「どっから見てるんだ」と天井を見上げたりした。

確かに何かが見ていて、ちゃんと「平均」になっていくことを確かめているような気さえした。300回振り終わった時、すべての数字がぴったり50になっていて、偶然にしてもすごいことだと思えて、しばらく何をしていても「何かに見られている」感じが取れずにいた。

それ以来、ぼくはずっと「平均」の神様だけは信じている。

「平均」の神様を信じるまでは、たとえば赤信号につかまった時、「運が悪いな」と思ってしまうことが多かった。でも、今では「緑で通れることも同じ回数ある」と思うようになった。

平均の神様の力は凄い。決して間違えないし、いつだって圧倒的に公平だ。ただ、平均の神様は大きいことは得意だが、小さい事は少し苦手だ。自分一人の人生で考えると平均の神様が失敗しているように見えることもあるが、もうちょっと広く見渡すと、やはりちゃんと平均の神様が機能している事を知る。

一番平均の神様に感動したのは戦争のあとの新生児の男女比を見た時だ。戦争では男が大勢死ぬ。もしそのままにしておけば、明らかに今、女子の方が大幅に多くなっているはずだ。しかし、平均の神様はそんなイレギュラーな事態まで計算に入れて、平均化してしまう。どこの国でも戦争のあとは男性が多く産まれて、帳尻が合うようになっているのだ。

でも、平均の神様の一番いいところは誰も自分を祈る信者がいなくても、ちっとも気にしないことだ。世界中でいつもすごいことをやっているのに、誰も気が付かない。感謝もしない。

でもぼくがやっても、他の誰がやっても、人生はいつだって成功する確率が同じなのはこの神様のおかげだ。だから今日もぼくは手を合わせる。

明日もあさっても、平均的な、幸せな一日であることを。

二月の敗者?

……みたいなタイトルをつけると、「お、あの話だな?」とピンとくる方がたくさんいらっしゃるかと思います。

そうです、受験です。中学入試、高校入試、大学入試が一斉に行われるこの季節。うまくいった方は「サクラサク」、惜しくも逃した場合は「サクラチル」などと言われ、学生達にとっては本当に正念場といった雰囲気です。

かつて品性下劣が売りのようだったstudio ET CETERAのメンバーも、それぞれ受験を経験しています。代表である向山貴彦本人も一浪し、トイレの壁に世界史の年表を貼って覚えていたという過去が残っています。それ以外にも「おれは大丈夫だ」「やればできる」と書かれたルーズリーフが部屋中に散乱していたという証言もありますが、こちらに関して真偽のほどは定かではありません。

ですが、今回お話したいのは実は受験のことではありません。二月と言えばもう一つ、大きな行事がありました。甘いチョコレート。かつては愛の告白だったもの。

そう、「バレンタインデー」です。

昭和から平成にかけての時代、2月14日は女子が男子にチョコを渡して愛を告白する、ロマンチックな一日とされていました。男子の方も、甘い期待と幻想を持って、なんとなく浮ついた空気が教室に満ちていた記憶があります。

しかし平成の後半から現代において、この習慣に大きな変化が見られました。

かつては若者の間で「本命」「義理」と言われていたチョコレートに、いつの間にか「友チョコ」という第三勢力が登場していたのです。かと思うと、この「友チョコ」はたった数年の間に世間を席巻し、いつの間にか学生バレンタインデーの主力に取って代わってしまいました。

簡単に言うと:↓

1980年代の女子:「Aくんにチョコ渡して告白するんだ。受け取ってくれるかな……」

1980年代の男子:「いくつもらえるだろ、ワクワク」

だったものが、

2020年代の女子:「やばーい! 友達と部活の子合わせて三十個手作りしなきゃ! 男子? しらんしらん!! あっお母さん! 百均でラッピンググッズ買ってくるねー!!」

2020年代の男子:「いくつもらえるだろ、ワクワク」

こういう感じの変化です。(ただし、過去二、三年に関してはコロナの影響で手作りを避けたり、食べ物を渡すことに抵抗が……という傾向もあり、この限りではありません。悪しからず。)

ちなみに私の知人でも、当時高校生だったA子ちゃんが学校へ四十個の手作りチョコを持って行き、五十個持って帰ってきていました。ちょっとした業者の数です。当然、製作は一人では無理なので、お母様が深夜まで手伝い、運搬にもお車を出して頂いたそうで、もうそうなるとママチョコなんじゃないかという気がしますが、現実です。

そんなバレンタインの変化に、果たして男子はついて行けているのか。

気になるところですが、実は、意外と納得しているんじゃないかという気がします。

昔に比べ、今は名簿もランドセルの色も、「男子だから」「女子だから」で分ける時代ではありません。時々、「男らしくない」とか「女の子らしくしなさい」という表現を使いがちな大人に、子供たちの方が「そういう言い方しちゃいけないんだよ」と注意を促すような時代です。

ジェンダーを超えて個性と人権は存在する。そのことに、現代の子供達は慣れてきています。件のチョコに関しても、むしろ「男子からあげちゃだめかな?」「男子グループでも集まってお菓子作りたい」などといった、別の方向のアプローチすら見られてきています。

とはいえ、じゃあ女子からチョコいらないの? というと、それなりにニヤニヤして「そりゃ、ほしいけど」と答える。それが現代の男子なんじゃないか、と個人的に思います。その中で、もらえなかった子を「敗者」とするのは早計です。

では、タイトルにある『二月の敗者』とは、いったい誰のことなのか。

ここで思い出すのは、向山が六年生の時のエピソードです。当時のバレンタインデーは、まだまだ昭和の、女子からチョコレートをもらう時代でした。授業の終わった教室で、先生が去ったのを見計らって、リーダー格の女子が教卓に立って言いました。

「男子!! 一列に並んで!!」

何やらものものしい雰囲気と威圧感に、当惑しながら行列を作る男子達。女子が続けます。

「手、出して。片手だけ!」

男子の列の一番前の子が、言われるままに手を出します。するとその女子は、こっそり隠しておいたチョコを取り出しました。ファミリーパックの麦チョコ。大袋で百円するかしないかという激安チョコです。

「はい! バレンタイン!!」

と言うやいなや、男子の手にはザザーッと片手分の麦チョコが流し込まれました。

「はい次! はい次! 二周はだめだよ!」

さながら戦時中の配給の様相を呈した、そんな男子達のバレンタインでした。

「……で、その時、どう思ったの?」「いや、麦チョコ美味しいなって」

これが敗者です。

再始動、少しずつ。

お久しぶりです。studio ET CETERAの猫蔵です。

本当に、申し訳ないくらい更新が滞っておりました。前回の更新からなんと三年。青少年なら、軽くひとつ学校を卒業できる年月です。

昔であればこういう時、何があったか——というと、意外と何も起きていませんでした。三年ぶりに、友達から年賀状の返事が来たとしたら、たいてい同じ名前で、同じ住所で、一言こう書いてあったものです。

「変わりなくやっています」。

平和です。まあ、中には住所も名前も同じだけれど、「実は名字が二回変わって元に戻りました」という人もいますが。

しかし、今回の三年は、そんな通常の三年とはまったく違うものでした。

その間にコロナが流行し、マスク姿が当たり前になり、我らが代表(兼雑用係)である向山”テディ”貴彦の愛したタピオカ屋も、外での飲食が減少した関係か下火になり……代わりに、何トッツォとかいうイタリア式の生クリームハンバーガーが幅を利かせてきました。これに関しては、そのうち「甘くないトッツォ」「めしトッツォ」などが出て、そのうち野菜が挟まれ、肉が挟まれ、一周回ってハンバーガーに進化するんじゃないかという気さえしています。

嘆かわしいことですが、これも時代の変化と受け入れる他ないのかもしれません。それほど、ここ数年で世界の状況は大きく変わりました。海外はおろか、近所のファミレスさえ出かけることをためらう日々がくるなど、誰が考えたことでしょう。

私どもの方でも、ただ悲しみに暮れていた当初から、数年の間にいろいろと考えることがありました。そして、悲しみは変わらずあるけれども、その上でやはり大きくスタッフの気持ちにあったのが、「向山の作品を残したい」という強い想いでした。

向山の作品——当然、書籍化されているものはたくさんあります。

でもそれ以上に、彼は多くのものを残して逝きました。具体的に言うと、無印良品のハードボックス三十個分くらいの量の下書きや、資料や、落書きのマンガや、小説のアイデアや、友達をからかうために作ったポストカードなどです。それらは作家として以上に、話し手として、遊び仲間として、またはただ単に人生を語る相手として、彼がこれ以上ないほど面白い人間だった、ということの証拠です。(現代では、これを一言で言う便利な言葉が流行しています。「やばい」です)

書籍化されているものには、多くの方々のお力をお借りして、彼の完成した「作品」を収めることはできました。でも、リアルな「人生」の部分は、残念ながらあまり収められなかった。でもその誰よりきらめく人生の部分こそ、彼の彼たる部分であり、「向山貴彦」を唯一無二にしている部分であると、私たちは考えております。

そんな彼の残した資料や、書きかけの原稿、或いはネットに掲載したけれど、今は読めなくなってしまったエッセイなどが、スタジオにはたくさん保存されています。正直、最初の数年は見ることさえできませんでしたが、やっと少しずつ整理できる余裕が生まれて参りました。

これから、少しずつ、書き残したものなど、みなさまのお手に届けられたらと思います。

どうか、少しでもみなさまの人生に温かい力になりますように。

2022年2月 猫蔵拝

春が近づいてきました

1つの巡りが終わり、新たな芽吹きの季節。
皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
スタジオ・エトセトラのスタッフ、宮山です。

スタジオ創立者であり代表の向山が旅だってから1年近くが経とうとしています。
その濃いキャラクターと、膨大なしゃべりのエンターテイナーぶりは、
様々な逸話と共に語り継がれ、相変わらずその存在感は圧倒的。
今も雲の上からこちらの様子を見守りつつ、お話を紡いでいることでしょう。
スタジオ・エトセトラはこれからも皆さんと共に歩みを続けていきます。

今日は、少しだけ私自身の報告です。
ここ近年、イタリアを中心としたヨーロッパでの発表が多かったのですが年明けは広島での展覧会に参加しました。
作品を見て鑑賞するだけでなく、言葉で語られる場をつくることを目的とした3年間に渡る日伊交流プロジェクト「Cos’è l’arte?-なにがアートなの?-」。
イタリア人美術家5名と日本人美術家6名が、被爆の記念碑でもある
旧日本銀行広島支店、及びGalleryGに作品を展示しました。
写真で展示作品の幾つかをご紹介します。

dove comincia il cielo? -空はどこから始まる?-

dove comincia il cielo? -空はどこから始まる?-

dove comincia il cielo -空の始まるところ-

Gallery G @広島

展覧会の詳細はこちらから

これからも少しずつ、スタジオの動きをレポートできたらと思います。
2019年2月 宮山拝

ほたるの群れ・次回予告

どてら猫

童話物語 幻の旧バージョン

ほたるの群れ アニメPV絶賛公開中

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