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本日のワンパラ(2016/06/11)「最後のメッセージ」

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「最後のメッセージ」

 昨年の九月、父が亡くなりました。

 「うちの親伝説」「大学教授の散歩道」などですっかりおなじみの父ですが、よほど不死身のイメージがあるのか、九十二歳で亡くなったというのに、どこへ連絡しても「うそ!」「まさか!?」という反応ばかり返ってきました。日本人の平均年齢も、卒寿も、とっくに越えているのだから、「まさか」も何もないと思うのですが、どうも父だけは本気で死なないと思っていた人が結構多くいたようです。

 そんな父が愛したのが英語と文学でした。幼い日に叔父の家で英語の雑誌を見て、その中に出て来る汽車のおもちゃや珈琲のパーコレーター、ボブスレーなど、見たこともない世界に目眩がするほど憧れたのがきっかけだったようです。何しろ戦争よりもずっと前の時代——山梨の川と畑しかない田舎に住んでいた子供には、想像を絶する体験だったことでしょう。

 しかし、残念ながらそこに載っている説明を、父は一文字も読めませんでした。家族の誰も読めませんでした。知り合いの誰一人、読めませんでした。アメリカと貿易をしていた叔父さんですら、写真を眺めているだけでした。英語の辞書はもちろんないので、分からない言葉を調べる方法もありません。インターネットなんて夢のまた夢です。それでもくる日もくる日も雑誌を眺めて、父は少しずつ英語を憶えていったそうです。

 それ以来、いつかアメリカに行ってみたいと考えて、父は勉強を始めました。学べば学ぶほどアメリカが近くなるような気がして、父にとって勉強は最高の娯楽になりました。しかし、裕福でない家庭では、勉強は最高の贅沢でもありました。結果的に父は十代の初めで大好きだった学校を辞めて、働きに出ざるを得なくなりました。

 過労から重い病気を患い、命からがら生き延びたかと思うと、今度は戦争が始まり、軍隊に徴兵され、否応なく死を覚悟した父にとって、「学校」は見果てぬ夢でした。敵国となったアメリカと英語は、もはや手の届かない遠いところへ離れていました。でも、どんな状況になっても、父から「学びたい」という気持ちだけは決して消えることがありませんでした。崇高な気持ちでも、高い志でもありませんでした。ただ、本当に勉強が好きなだけでした。

 戦争が終わったあと、父は夜明け前から畑に出て土地を耕し、午後からは学校に行く時間を作ろうと町を奔走しました。当時の日本人としては例外的に英語ができることを活かして、占領軍のGHQに通訳のバイトとして雇ってもらい、焼け野原になった東京を米軍のジープに乗って走り回りました。その甲斐あって、同級生に何年も遅れてですが、戦後やっと教室の席に戻る事が出来て、禁止になっていた英語も思う存分学べるようになりました。かすかにですが、アメリカの大学へ行く夢にもまた火が灯りました。

 しかし、当時は一般市民がドルを持つことすら禁止されていた時代。アメリカに留学するのは月世界旅行並に難しいことでした。それでも父は働いて、勉強して、あらゆる方法を探して、探して、探し続けました。GHQで通訳として働いたあと、重症結核病棟の患者に英語を教え、大学で講師として働き、やがてフルブライトの奨学制度に出会って、その果てにアメリカの大学へ留学が決まったのは、実に三十五歳の時でした。そこからさらに二十年——アメリカで最低賃金の労働に従事しながら空き時間に学校に通って、アメリカの大学院で博士号を取った時には、もう五十近い年齢になっていました。

 それでも、父は学びたかったのです。

 結婚するのも、親になるのも、就職するのも、世間より大幅に——それこそ二十年以上遅れました。アメリカで苦楽を共にした母と共に大学の英語の先生になったのは、もう普通の人が定年を間近に控えた五十代でした。ところが、だてに不死身と思われていたわけではないようで、父はそこから四十年近く現役で働いて、八十九歳まで教壇に立ち続けました。自分と同じような夢を持った若者を海外で学ばせたい一心から、アメリカへ留学に送った生徒は述べ千人以上。八十八歳の夏まで、毎年自分自身がアメリカまで行って、留学生の面倒を見ていました。

 父は「いつもにこにこしている人」でしたが、その満面の笑顔で、いつどこででも、誰にでも、英文学を語っていました。相手が三歳の幼子でも、言葉の通じない外国人でも関係ありません。目をきらきら輝かせながら「詩はすばらしいよ」と言って、覚えている無数の詩の一篇を暗唱しては、熱っぽくその意味を話し聞かせていました。

 相手はたいていぽかんとして、ただ茫然と聞いているだけです。うちに遊びにきたぼくや妹の友達を捕まえては無差別に詩の話を何時間も聞かせるので、子供の時は恥ずかしくて、申し訳なくて、心底まいりました。

 でも、不思議なことに、そのわけのわからない難しい話をどうやらみんな好きだったようです。お葬式のあとに驚くほど多くの人にそう教えられました。「内容はさっぱり分からなかったけど」と断った上で、「もう一度だけでも聞きたかった」と多くの人から涙と一緒に告げられて驚きました。元学生さんからは「向山先生に『一生勉強しなさい』と言われたことを今も大切に覚えています」というお手紙をたくさんいただきました。その後、自分自身も先生になって、英語を教えている人も数多くいるみたいです。

 入院してからも、父は最後の最後まで世話をしてくれる看護師さんをつかまえては、「何歳になっても勉強することを忘れちゃいけないよ」と話していました。点滴と酸素マスクにつながれている状態です。さすがに迷惑だし「もうやめなよ」と父に言ったのですが、あとから看護師さんに謝りに行くと、看護師さんは「ああいう話をしてくれる人は私にはほかにいません」と涙を浮かべていました。

 息を引き取る三日前になっても、父はかすれがすれの声で、時々休みながらもぼくの妻の猫蔵にロングフェローの詩の話をしていました。父のぼくらへの明確な最後の言葉になったのは、「じゃあ、この続きはまた今度」というものでした。猫蔵は今でもその続きを探して、父の遺した原稿を読んでいます。おそらく、これからも一生探し続けると思います。

 「学ぶことは尊い」。そして「学ぶ気持ちさえあれば、どこでも学校になる」ということを、父は身を持って周りに教え続けました。九十で現役を引退してからは、はじめての長編小説を書き始め、述べ六十万字にものぼる原稿を去年の初めに書き上げました。そのためにパソコンも、ワードも九十歳で学びました。自分の半分の年齢の息子に小説の書き方を真摯に聞き、それよりもさらに若い息子の嫁に原稿を校正してもらって「なるほどね」と素直に赤字にうなずく人でした。

 亡くなる前の夜、呼吸が低下する度、好きだった英語の詩を家族が交互に読み上げました。すると、意識がないはずの手に握力が戻って、呼吸が何度も回復しました。大好きだったロバート・ブラウニングの「Prospice」という詩を読んでいる最中、ある箇所で何度もぼくの手を握るので、なんでなのかなと思いました。そして、何度目かに読んでいる最中、ふと気が付いて、涙が出ました。

 ある単語を読み違えて発音していたのです。気が付いて読み替えてみると、かすかに父の口元に笑みが浮かんで、手の力が抜けました。——こんな状態でも、父はまだ何かを教えようとしている。まだ文学への情熱を持ち続けている。ただただ、そのことに胸が一杯になって、父の手を握り返しました。

 どこでも学校になるし、どこでも学ぶことは出来る。
 だから学び続けなければいけない。

 今年も新しい春が来て、あっちこっちにたくさんの新しい学生、新しい社会人が生まれたことと思います。新しい学校や、新しい会社へ行く人だけでなく、新しいことに色々と挑戦している人たちもたくさんいると思います。今までやってきたことを今年もがんばり続ける人もいると思います。今は疲れて、休んでいる人もいると思います。

 でも、あなたがどこの誰であっても、もし今、たまたま父と出会ったら、父は間違いなくあなたにこう言うはずです。

 「どこにいてもいいいんです。学ぶのだけはやめないで。どうか、いつまでも学び続けてください」

 父の代わりにこの言葉を届けたくて、これを書きました。

 父ちゃん、ありがとう。
 ぼくも学び続けるよ。

 2016年 春
 向山貴彦

syouzouga

(向山義彦の肖像画 作・平山けいこ)

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