パイポ

ビデオ借りに行かない?③

さて、これまでのビデオとノートの世界。楽しんで頂けましたでしょうか。

このノートの存在を知ってから、ここまでとはいかないものの、私もなるべく観た作品の日付とタイトルくらいは記録するようにしています。特に好きな作品には肉球のマークを付けておいたり、スケジュール帳に書き足す程度ですが、案外見返すのが楽しくなっています。

でも、最近の「映画観る」というのは、なんとなく昔と違っていて……。

昔も今も、映画館に行って映画を観るというのは一大イベントです。大画面に迫力の音響という体験は、大型テレビが普及した現在でも得られないものですから、当然です。しかし、「自宅で」映画を観るという行為は、過去の時代においては現代とまたちがった文化でした。なぜなら、自宅で映画を観るには、その前段階として「レンタルショップに行って借りる」行動が必要だったからです。

ここで登場したのが、タイトルにもなっているこのセリフ。「ビデオ借りに行かない?」

どこの世界にも、夜が遅い人々がいます。仕事や勉強、一通り片付いた頃には、もう深夜。ストレスと解放を求める心……。何かしたいけど、それほど選択肢はない。ゲームセンターというほど盛り上がる気力もない。ファミレスくらいはやってるけど、ごはんだけ食べるに出るのもつまらない。そうなった時、十二時近くに開いている楽しい場所と言えば……

そう、レンタルショップ!

深夜の短いドライブと、人の少ないビデオショップの空気。どことなく気だるそうな店員さんに、大きなアニメのポスター。一方で奥のアダルトコーナーには謎のビニールカーテンが吊されていて……大人な感じと、子供っぽい感じが入り交じって、はっきり言って最高でした。そんないろんな楽しみと背徳感が詰まっているのが、この「ビデオ借りに行かない?」という魅惑的な言葉だったのです。

どの映画を借りるか、という選択もまた楽しみでした。その日たまたま出くわした、何の情報もない作品をパケ借りする。そこにはちょっとしたくじ引きみたいな、独特の面白さがありました。自分が選んだ作品が「当たり」ならば誇らしく思えたし、「外れ」ならばそれを無理矢理愛そうとした。今で言う「ガチャ」にも近い感覚で、私たちはビデオを借りていたのです。こういった喜びは、採点表のSCOREには反映されていません。その意味では、「キラートマト」も「血みどろ農夫……」も等しく、私たちに楽しみを与えてくれたと言えます。

ビデオショップ自体にも個性があり、アニメが異常に充実している店や、入り口にDSが当たるクレーンゲームが配置されている店(何故か毎回やってしまう)、はたまた大量入荷しても全巻借りられているウォーキ●グデッドレベルのメガ人気新作が、何故かたいてい一本だけ残っている店(うちの裏手のゲ●)……。あちこち、はしごしてやっと探しているものに巡り会えるのも面白かった。

結局のところ、ビデオであろうがアマフリックスであろうがHu-ネクストであろうが、面白いものは面白いのです。選択にある程度責任が伴うのも同じ。ただそこに、「レンタル」というフィルターが一枚かかっただけ。でもそれは、手間を省くのと同時に、楽しみも少し省いてしまったような気がします。

というわけで、最近映画が面白くないな……いっぱいありすぎて、どれ選んでいいかよく分からないな……そんな風に思っている人は、たまにはお店に行って選んでみるのもいいかもしれません。自分の手で一本を手に取って、お金を出して借りる。そうなると、いやでも観ざるを得ないはず。最初はダルい映画でも、ラストが大盛り上がりになることもあります。意外な作品を選んで、「こういうのが好きだったんだ」と自分に驚くこともあります。どちらにしても新しい発見があることには代わりありません。

ただし、返却期限にはご注意を。 過ぎると、呪いのビデオになってしまいますよ……!!

ビデオ借りに行かない?②

みなさま、こんにちは。あなたの知らない……は、もういいか。

前回はこちらのノートと、そしてビデオの時代についてお話をさせて頂きました。今日はそのノートについて、もう少し掘り下げて見ていきたいと思います。(いやだと言われてもやります。せっかくのネタだし)

映像、小説、マンガや動画……あらゆるコンテンツは、世に出た瞬間に評価の対象となります。いい評価だけでなく、悪い評価もある。でも、そのすべてが「見ました」という、ある種の確認印になっています。端的に言うと、いいにしても悪いにしても、評価があるということはイコール「見てもらえた」ということで、この時点で作者の意図は半ば達成していると言っていいでしょう。

こちらのノートにも、映像作品に関して評価が下された形跡があります。一本一本、一人で観たものは一人で、数人で鑑賞した者はそれらの総合の反応として、十段階の数字が書かれています。「SCORE」と題された、この部分です。

上から数字を見ていくと10、8、9、9、9……なかなかの高評価が並んでいるではありませんか。このノートが作成された当時、日本で観ることができたのはそれなりに現地でも評判が高かった作品と思われるので、高評価も納得です。加えて、自分達でお金を出して借りたという現実。中学生にとってレンタルビデオがそれなりにお金のかかるものだったことを考えると、間違っても低評価の作品などあってはなりません。むしろそんな作品を借りた自身を焼き殺したくなることでしょう。

それらの結果としての高評価、と言いたいところですが、実はノートの最後のページに、この数字の基準となるデータがありました。十段階の採点表、その内訳はこのように付けられていたようです。ご覧下さい。(※画像の下にテキストを打ち直してあります。詳細はそちらでお読みくださいね)

〜採点表の点数の意味〜

評価0:はっきり言ってこんな点数をつけられる映画はほとんど存在しないはずだ。作った連中は脳みそがくさっている。

評価1:こんな点数の映画は作る方もバカだが、見る方は大バカである。捨てたい金がある時に観に行くと良い。

評価2:浅草のリバイバル劇場や●●●のスラム街の映画館に行くと、時たまこんなような映画が見つかる。

評価3:まあ、この点数は要するにグチャグチャの映画。「キラートマトの逆襲」とか「血まみれ農夫……」などがこの点数である。

評価4:これがビデオに保存するための最低の最低の点数である。人間で言うと、ここまでが基本的人権を持っている。

評価5:言っておくが「5」だからと言って平均点という訳ではない。アマチュア映画だってこの点数のものはザラにある。

評価6:ここまでいけば、まあ観れない事はない。人によっては好きな人すらいるだろう。でもその人は私ではない。

評価7:平均点。もう一工夫さえあればある程度はヒットしたかも知れない。残念ながらその工夫はなかったのでこの点数。

評価8:なかなかの秀作。ところどころシナリオや演出にひっかかるところこそあれど、総合得点はそれを十分カバーしている。

評価9:ほとんど完璧で、何らかの形で映画の歴史にこうけんしている。ここまでくれば文句は言えない。

評価10:総合芸術の粋を集めたような名作。人生一度はこれを見なければ損をする!!

さらに右の方にある☆印は、「特選ソフト/だれもに一度は見てもらいたいすばらしいソフト」とのことですが、左側は「MUST(観なければならない)」で右側は「MUSN’T(絶対観るな)」とあります。逆にすると大変なことになりそうなので、気を付けたいところです。

さらにノートを探ると、一番評価の高い映画は一本目の「サイコ(評価10)」。一方で、評価は8レベルであるものの「MUST」の☆印が付いているのは「ザ・フォッグ」「デッドゾーン」「ジョーズ」「エイリアン」などの往年の名作ホラー作品です。セレクションには多分に本人達の趣味が入っているとは思いますが、こうなると俄然一番低い映画に興味が湧きます。

ノートに載っていた最低点は、と探ると……「バスケット・ケース(評価5)」!! さらに「MUSN’T」の☆印すらついている!! 私自身も観たことのある作品ですが、まあ、「切り離されたシャム双生児の兄弟が、肉の塊みたいな片割れをバスケットケースに入れて持ち歩く」っていう設定からすでにトンデモホラーという感じだったので、妥当な評価かと思われます。ただし、なんか無茶な飲み会とかの時に流しておくと盛り上がる可能性もあるので、それくらいの感じで機会があればチェックしてみるのもありかもしれません。(でも忘れないでください。あくまでMUSN’Tです! 自己責任で!!)

ビデオ借りに行かない?①

ここに一冊のノートがある。

覚悟して開くがいい。それは異界への入り口……

そう……The Video Libraryへの扉……

みなさまこんにちは。世にも不思議な・あなたの知らない・トワイライトストーリーの時間です。

今日はこちらのノートにまつわる不思議な話をご紹介しましょう。

遠い昔。現代のようなサブスクではなく、映像を「所有する」ことに意義があるとされる時代がありました。

何を言っているか分からない? それなら、あなたはずいぶんお若い。ネットで動画の配信が行われ、パソコンやスマホで好きな映像作品を——例えばそれが去年公開されたばかりのスパイダーマン最新作だったとしても——楽しめる、そんな時代は実はごく最近のことなのです。

さらに言えば、「何度でも」楽しめる。ここが重要です。今では、サブスク上では月額いくらでたくさんの作品が観られます。さらに新作などは有料でレンタルすることも可能です。

このレンタルした映画は、期限が切れたら観られなくなります。でも、再度数百円払えばまた見られます。しかし数十年前は、その一本を見るために映画館まで足を運ばなければならなかった。そして、一回見終わったらそれがその映画とのお別れ——以降はテレビでの奇跡的な再放送を待つ以外、二度とその映像を見ることは叶わなかったのです。例えそれが何年後のことであったとしても。

しかしその流れが大きく変わったのは一九八○年頃。ビデオが我々の生活に入り込んだ時でした。この発明によって、テレビで流れた映像をビデオテープに録画できるようになり、映画を複数回見る、という体験が可能になったのです。さらにはこのビデオを「レンタル」するという概念も飛び出し、私の地元でも「キングスロード」という名のビデオショップが隆盛を極めました。(ビデオショップの名前はなんかこういういかついのが多かった)

そんな中、人々は新たな事実に気がつき始めます。ビデオテープにはテレビに流れた映像を記録することができる……それなら、ビデオデッキが二台あれば、レンタルしたビデオも私物のテープに録画できるのではないか?

悪魔の発想。同時にそれは我々が到達したセンセーショナルな現実でもありました。この手段を用いれば、あらゆる映画を我が家に持つことができる。何度でも好きな作品を楽しむという夢が叶う時がきたのです。

こうして、一部の人々が映像作品に抱いていたただならぬ妄執が実現することになりました。自分の愛する作品をテープに取って保管し、いつでも何度でも観る。まさに映画をこの手に持っている感覚に酔いしれたと言ってもいいでしょう。

その結果が、こちらのノートです。ある人物の執念がそこに刻み込まれています。

ほら……

……お分かり頂けたでしょうか。

ここにあるのは、かつてその人物と彼の周囲の団体(という名の○ージとヤ○ソー)が観た映画の英語題・邦題/年代/録画したビデオテープの番号/映像の状態/作品の評価などなどを書き込んだ、それこそ趣味の結集のノートです。けっこうこんな感じで何ページも続くので、この辺にしておきましょう。ですがその執念、妄念のかけらは感じて頂けたかと思います。

お年頃の方は少し、思い出すこともあったかもしれません。その昔、レンタルショップに行くのは週末のルーティンでした。借りたビデオは、独特のシャワシャワするバッグに入っていました。新作や準新作は一本四百円とかで、大抵四本で千円……でも四本目まで見終わった試しがなく、一日返却が遅れて絶望……

この時代を知らない方には知って欲しい。かつて経験した方には、思い出してほしい。

ビデオは、確かにこの世にあったのです。

※ちなみに、ノートの右の方に「SCORE」という謎の数字が付いています。これについては、長くなりそうなので次回お話したいと思います。

究極の教科書

噂では、明日から新学期がはじまる学校がけっこうあるとか。

新学年、新学期、ということで、ドキドキしながら胸を弾ませている(よく考えると同じ意味)人に。入社式を終えて、本格的に仕事をスタートする人に。新年度の部署替えで、絶望している人に……。

人生に悩むいろんな人に読んでもらいたい、向山コラムを本日はお届けします。

究極の教科書  文:向山貴彦

ある程度大人になってから気が付いたのだが、ずっと見落としてきたものの中に、人生のすべての答えが載っている奇跡の本があった。生きている間に「こうしたらどうか」「ああしたらどうか」と苦悩しながら、十数年の試行錯誤を経てたどり着く結論が、たいてい全部その本に最初から書いてあるのだ。

しかも、ぼくはその本を子供の時――まだ年端もいかない幼児であった時にすでに読んでいた。その本は実質、ただでもらったものだったと思う。ぼくだけではない。少なくともぼくと同世代のすべての日本人は多かれ少なかれ、その本を読んでいるはずなのだ。

道徳の教科書である。

あの毒にも薬にもならないような無害な教訓が載っている、古くさいイラストだらけの本のことだ。

例に漏れず、当時ぼくもあの本を馬鹿にした。道徳の時間そのものを馬鹿にしていたかもしれない。実際、先生も学校もあまり力を入れているようには見えなかったし、たいていは勝手に教科書を読んで、たまにその感想文を書かされていたぐらいだ。

教科書に書かれているのは、いつも鉛筆を盗んだKくんのことを先生に報告するべきかどうか、みたいな小話ばかりで、たいしたドラマ性もない。出てくる教訓もハリウッド映画のように派手に「夢を抱け!」とか「世界に羽ばたけ!」とかではなく、「掃除をちゃんとしよう」とか「予習復習をきちんとしよう」とか「栄養の偏りがない食事をしよう」などといった、当たり前で、地味で、別に言われなくても分かっているようなことばかりだった。テストもないし、覚えることもないし、成績もつかないし、一番どうでもよくて、一番無意味な授業だった。

そんなことで人生が幸せになるなら苦労はしない。そう思って、若い時に自分なりのルールを作って来た。若者特有のマグマのような熱いルールたちである。

・仕事は倒れるまでやれ

・空腹を忘れるぐらいでないとがんばってるとは言えない

・無理は基本、無茶は必須

・五体満足だということはまだ余裕がある

・打ち上げに参加できるような体力を残して終わるな

今見てみると、あり得ないようなルールばかりだ。当然のように、それらのルールは全部人生のどこかで破綻を来し、その度に柔らかく調整を加えて、細々とアップグレードしてきた。調整を繰り返していくと、ルールは不思議なほどシンプルになっていく。そして、最初は大げさだったものがやけに日常的で小さなルールに落ち着いた。

当時は良い物語を書くためには、たくさんの冒険をして、リスクを冒して、ムリをして、命を賭けて、大きく夢を抱いてがんばればいいと思っていた。でも、これらのことをするのに、若い時には当然無視していた大きな前提条件がある。

それは心も体も元気であるということだ。

病気も事故も予測できない。一旦、病気になったり、事故に巻き込まれると、大仰な目標はすべて無意味になる。無理をしようにも無理ができない。夢を抱く余裕もなければ、働くことさえできなくなる。そうなればお金もなくなる。作ってきた自分のルールの礎など、泡のように無意味に消えてしまう。

そういった時はこんなルールではだめなのだ。どんな時にも――貧乏な時にも、体がしんどい時にも、夢破れた時にも通用するセットのルールが必要になる。何しろ人生は変化する。二十代の自分のまま年を取って死ねるなら、ルールを作るのも簡単だ。でも、刻々と変化し続ける人生で、自分の考えを一貫して保つには、もっとどんな場合でも通用する汎用性のあるルールが必要なのだ。

 その結果、ぼくのルールはずいぶん簡単なものばかりになった。

・規則正しい生活をしよう

・予習復習をちゃんとしよう

・三食を同じ時間に偏りなく食べよう

・食事は家族みんなで家で食べよう

・夜は早く寝て、朝は早く起きよう

・無駄遣いはやめよう

・友達を大切にしよう

全部、道徳の教科書に書いてあったことだ。ぼくはそれを小学校低学年の時に全部覚えたはずなのに、それがどんなに優れた人生のコツなのか、ずいぶん年をとるまで気が付かなかった。おそらくではあるが、道徳の教科書を守って生きていれば、かなり高い確率で幸せになれるのではないかと思う。

もちろん、それは簡単なことじゃない。あるいは一番難しいことなのかもしれない。

でも、あれは数百年かけて我々の先祖が見つけてきた「幸せの法則」なのだ。軽々しく扱うべきものではない。実はすごい知識の集積なのだが、あまりにも当たり前に「保健便り」とかで目にするので、つい軽視してしまいがちなだけだ。

三十代の初めくらいに自律神経失調になった時、気が付いたことがある。どうも精神を病んだり、不幸になったりする人は、多くの場合、巨大な天災に見舞われた人間ではない。ただ単に、下の三つの条件をひとつも満たせてないだけだ。

・規則正しい時間に睡眠をとっている

・正しい食生活を送っている

・家が片付いている

逆に言えば、この三つだけしっかりしていれば、よほど不幸なことがあっても、人間はやっていけるように思う。大病をして十代の頃に長期入院している時、ずいぶんたくさん世間で言うところの「不幸な人」と出会った。どのくらい生きられるのか分からない少女や、生まれてから一歩も病室から出たことのない少年。たった一人で病気と闘う老人。目も見えず、足も不自由で、ずっと入退院を繰り返している男性。――でも、彼らは別に不幸ではなかった。みんなよく笑い、よく人を笑わせた。そして、規則正しく睡眠をとって、食事をして、部屋が片付いていた。

逆に大学時代や社会に出て自称「不幸」な人もたくさん見てきた。彼らはたいてい特に難病を抱えているわけでもなく、寿命が残りわずかでもなく、それほど貧乏でもなければ、それほど不幸な家庭の出身でもなかった。ただ、部屋は散らかっていて、昼間に寝ていて、食事は外食ばかりだった。

誰よりも、ぼくがそうだった。

十数年も「何が正しいのだろう」と悩んで、色んな難しい本を読んだり、文学作品に答えを求めたり、えらい人の話を聞いたり、旅に出たりもした。きっと「道徳の本を読め」などと言われても、耳も貸さなかっただろうと思う。「食事を規則正しくしただけで、おれの抱えている問題が解決できるか!」と怒っていたかもしれない。

でも、その時のぼくに言ってやりたい。

一週間でもいいから、試しにやってみろ、と。

規則正しく、バランスよく食事をとるのは、おまえが思っているほど簡単なことじゃないんだ。

試しにどれぐらい差があるか、一週間、毎日ちゃんとレシピの本を見て、バランスのいい食事を正しい時間に自分で作って食べてみろ、と。それは驚くほどすごい変化をもたらすから、とにかくやってみろと。

その上でさらに夜、パソコンなんていじってないで寝ろ、と。朝七時に起きて散歩でもしろ。十年ほったらかしになっている倉庫の中を片付けろと。流しにある皿を一刻も早く洗えと。

信じられないかもしれないが、それだけで変わる、と。

解決法のないようなすごい悩みでさえも、その三つが揃えば、案外魔法のように解決するから一週間試しにやってみろ、と。

頭の中が散らかっている人は、机の上が散らかっている。

人生が散らかっている人は、部屋の中が散らかっている。

過去が散らかっている人は、倉庫の中が散らかっている。

頭も、人生も、過去も掃除はできないけど、机と部屋と倉庫は掃除ができる。不思議なことに、それらを掃除すると、相対する現実の部分も整理されていく。

子供時代に安全と安心を感じていたのは、時間がいっぱいあったからでも、夢があったからでも、心がきれいだったからでも、健康だったからでもなく、親がちゃんと見張っていて、夜寝て、朝起きて、三食ちゃんとごはんを食べて、部屋を掃除するようにやかましく言ってくれていたからだと、その時になってやっと気が付いた。

もしこれを読んでいて二十代の頃のぼくのように、どんな薬も、どんな人の言葉も自分を救えないような気がして、世界中のどこにも自分が探している答えがないと思っている人がいたら、試しに小学校の道徳の教科書を読み返してみてほしい。――あれは理想の正義をふりかざす本ではない。先人が膨大な時間をかけて研究した末に「確かな方法などないが、幸せになるために不可欠な人生のコツ」を集めた貴重な本なのだ。

宗教のように崇高な話ではない。ビジネス書のように貪欲なものでもない。

ただ、いつの時代にもいた、平凡な幸せを望むごく普通の人たちが一生をかけて考えて、ほかの人の人生とよく照らし合わせ、そして後世の人の幸せを願って残してくれた人生の「攻略本」なのだ。

すべての答えは得てしてすぐ近くにある。あまり遠くを見ていると、案外見付からない答えが人生にはたくさんある。一生探し続けている疑問の答えは、けっこう小学校の時にもう知っていたりするものだ。

学生時代というチュートリアル

桜咲く四月一日。

まさに今日、入社式だったという方もいらっしゃるのかなあと思います。これから社会に出るということで、きっと不安や心配もあることでしょう。

考えてみたら、学生時代というのは長いチュートリアル期間です。ゲームの冒頭で、手取り足取り操作方法を教えてもらえるあの時間です。Aボタンを押したらジャンプ。Bボタンでダッシュ。練習するだけで「がんばってる=いいね!」と言ってもらえる期間。

でも、ここからは本番のゲームです。広いマップと、自分というキャラが、ルールがあるようでない新しい世界に降り立つ時です。

その「人生」というゲームは決して悪いものではありません。いやなこともあるけれど、幸せなこともたくさんあります。出会いもあります。別れもあります。そのどれもが、チュートリアルにはない鮮烈さを持っています。そしていちばんいいのは、大人と言われる人たちは、ほとんどみんな同じゲームをやっているということです。

形が違っても、リアルでも、バーチャルでも、いつでもそのゲームの話ができる人たちは身近にいます。つらいことを話して、楽しいことを分かち合って、一緒にやっていくのがここから始まるゲームです。

今、手に持っているそのマップは、ずっと使ってもいいけど、交換もできます。やっていれば「経験値」は溜まります。「ジョブチェンジ」も可能です。しんどい、つらい、やめたい、と思ったら、まずそのことを思い出してください。

たかが電話一本、取るのが怖くてしょうがないのは、あなただけではありません。同期のあの子も、パリピっぽい先輩も、ベテランの方々も、みんな最初は怖かったんです。一見こなれているように見える子は、すごくがんばっているか、別の場所でその練習を積んできたに過ぎません。

だいじょうぶ、みんな一緒です。少しずつ、少しずつ。

大人のみなさん、人生デビューおめでとう!!

余談 ~私のやっていた電話を取る時のコツ~

・最初に電話に出る時のセリフ(「○○会社の○○です」みたいなの)を紙に書いて、電話の近くに貼っておく。一言目に慌てなくて済むので、冷静になれます。

・聞き取りづらかったり、周囲が気になる時は、一瞬目を閉じて耳に神経を集中させる。周りの人が聞き耳を立てているような気がして緊張しますが、僧侶になった気分で無視します。

・本気で聞き取れない時は「申し訳ありません、お電話が遠いようで……」と、電波のせいにする。だいじょうぶ、けっこう何度でも繰り返してくれます。

・分からない時は、とりあえず「少々お待ちください」で保留ボタン。この時期は新入社員の方が多いので、周囲もお客様の側も慣れています。ゆっくりやってOKです。

ちなみに「やっていた」と過去形にしていますが、今もやっています。大人、こんなもんです。

ほたるの群れ・次回予告

どてら猫

童話物語 幻の旧バージョン

ほたるの群れ アニメPV絶賛公開中

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