パイポ

目に留まらぬ風景

こんにちは。猫蔵です。

週の初め、なんとなくやる気が出ない……という方に、それから運動不足の自戒をこめて、こちらの向山過去ログ(かな?)を載せさせていただきます。

思えば人生に一番前向きだった時期は、よく歩いていました。最初はめんどくさいし、そんなに痩せたりもしないし、やってもやらなくても同じじゃん……とだるい気持ちを抱えていましたが、習慣になってくると、全然歩かないのも気持ちが悪いと感じるようになりました。そして、歩くと気分が良くなりました。

なんでも習慣になるまで続けるのが大事、でもそれが無理なら、きっと一回やってみるだけでもいいんじゃないかな。少なくとも一日、前向きな気分を楽しめます!

そんな歩くことに関するエッセイが、こちらです。

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「目に留まらぬ風景」文:向山貴彦

散歩は健康のために三十代後半からできるだけするように心がけてきた。

それというのも、うちの父親や主治医をはじめ、周りの昭和初期生まれのみなさんが揃って「歩かないとだめだ」と言っていたからだ。「とにかく歩け」「死にたくなかったら歩け」「歩いてたら死なない」など、どれも極端なアドバイスばかりだったが、年齢に似合わず元気な人たちがみんな共通でくれるアドバイスだった。

もっともうちの父は隣の県まで歩いて行くことや、山中で野犬に襲われて五キロ以上逃走することを「散歩」と呼んでいたので、散歩の定義はかなり怪しい。主治医も七十代だが、朝五時から山に登って山頂で夜明けを見ながら珈琲を飲むのが趣味の人だ。一回「山に登るのに気を付けることってなんですか?」と聞いたら「死なないようにすること」って答えた人なので、どちらの言うことも鵜呑みにはできない。なので、ぼくの中で調整して「一日三十分は歩こう」ぐらいに落として使わせてもらっている。

ということで、時々歩いている。もっとも、健康のためなので、正直面白いと思って歩いているわけではなかった。せいぜい万歩計のアプリで歩数や時間を計りながら、前回よりもよい成績を目指すぐらいしか楽しみはなかった。

うちの父と何回か一緒に散歩をしたことがあったが、父は本当に楽しそうに歩く。なんでもない住宅街を通るときにも「ほほう」「ははあ」などと感心しながら、あっちこっちを見て感慨にふけっていた。ぼくはその横でアイスを食べながら、「何を見てるんだろう」ぐらいに思っていて、ついぞ聞きそびれたまま父が亡くなったので、もう分かることはないなと思っていた。

しかし、今日ぼんやりと住宅街を歩いていて、あまり何も考えずに「天気がいいなあ」と思いながら周りを見ていると、ふとある小さな風景が目に入ってきた。

とある家の庭に建っている、古ぼけた小さなトタン屋根の小屋。小屋の周りには植木鉢が敷き詰められていて、もう何年もドアは開けられていない様子だった。でも、小屋の窓には若い女の子が好きそうなステッカーが貼ってあって、おそらくは大昔にその子の勉強部屋として使っていたのではないかと思われた。

母屋の方は一階建てで、子供部屋がなさそうな作りだったので、年頃になった娘のために親が建てたのかもしれない。小屋の向かいが母屋の掃き出し窓になっていて、ちょうどそこのカーテンを開くと、小屋の窓が見える。もしかしたらそこから夜中にとなりの電気がついてるのを確認して、「がんばれ」と思いながらお母さんは寝たのかもしれない。もっともその時、本当は娘はラジオを聞きながら友達にサンリオのレターセットで手紙を書いていたのかもしれない。いや、たぶんそうだろう。でも、いずれにしても、そんなことが何日も何日も繰り返された時期があったに違いない。それもおそらくはもうずっと過去のこと。いつかこんな風景になることを、その時は母も娘も考えもしなかっただろう。

きっと娘はもう母親になっているし、親はずいぶん年だろう。小屋のドアの横には小さく「生徒募集」という張り紙の名残があったので、あるいは娘が受験に合格して家を離れたあと、母親が公文の教室にでも使っていたのかもしれない。そんな日々もすべて通り過ぎて、今はその小屋は植木鉢の山に埋もれている。きっと、もう誰も長い間、中には入っていない。

そんなことが家の前を通り過ぎる、数秒の間に頭を過ぎった。一瞬のことだったが、今は暗い掃き出し窓から温かい光が洩れるところが見えたようだった。

そうして歩いていると、ひとつひとつの家にドラマがあることに否応なく気が付くしかなかった。なぜか二階の窓に板が打ち付けられている家。よく見ると、二十年くらい前には歯科だったと思われる建物。絶対出せない場所に車が停められている家。とりはずされた表札。表札の隣に貼られたペットの名前。そして、その横に書き添えられた二匹目の名前。
二階の小さな窓。気が付きもせずに通り過ぎるような窓の向こうにも部屋がある。そこから見る景色で育ったがはきっといる。どの窓にもそこが「世界でたったひとつの特別な窓」である人が、その家に住んでいた。
どの家にも外から分かる歴史がある。時間の刻んだ、優しくも残酷な爪痕を、あっちこっちに見ることができる。今まで何度も通っている道なのに、なぜかその日、はじめてそんなことに気が付いた。たぶん父にはこんな風景がずっと見えていたのだろう。

きっとぼくが歳を取ったので、前よりも見えるようになった風景。どんなようにして家の後ろに不要品がたまっていくのか、どんなようにしてよく使っていたものが使われなくなるのか——そんな経験をたくさんしてきたから、見えるようになった風景。

そんな風景に思いを馳せながら歩くと、ただの住宅街はまるでドラマのセットに見えてくる。たくさんの人が毎日を生きて、そのためにできた無数の小さな遺跡の中を歩いているようだった。散歩で歩いているのは風景の中だけではないのだろう。その町を通り抜けていった膨大な時間の中を歩いているのだ。

Wikiも知らない自己紹介 〜金網の向こう:最終回に寄せて〜

この世には、万物を知る場所がある。そこへ行けば、この世の全てを知ることができる——

物語っぽいそんな話は、今や現実となりました。電子の海のまっただ中、というかむしろ海そのものが、現代では「万物の図書館」として活用されています。大方人類が知る必要のあることは、検索すれば基本的には手に入る。本当にすごい時代です。

おまけにスマホというものまで発明されてしまったので、片手でググれば超ひも理論の最先端論文から、あじフライをしょうゆとソースどっちで食べるのがメジャーかまで、瞬時に知ることができます。(ちなみにタルタル派です。)

作家:向山貴彦に関しても、検索すればまた、知ることができます。しかし彼が氷の生食に執念を燃やしていて、マクドナルドで「オレンジジュース、ジュース抜きで」と注文して本気で引かれていたことなどは書かれていません。同様に、回転寿司の初手定番がゲソにぎり(タレ派)だったことなども載っていません。理由はというと、きっと「知る必要がないから」だろうとは思いますが。

でもそんなwikiに載っていない、向山本人による自己紹介を発見しました。前半だけの未完成な状態ですが、ご覧下さい。

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Wikiも知らない自己紹介 文:向山貴彦

ぼくは親の都合でアメリカのテキサス州というところで産み落とされまして、七歳ぐらいまで向こうの小学校に普通に行かされていました。

正直、この時、自分が日本人だという自覚はほぼ皆無だったのですが、ある時、親が急に日本に戻ることになり、はじめて自分がアメリカ人でないことを知ります。

マックもないような国に行くのはいやだ!(当時)とごねた幼いぼくを知り尽くしている母親は親戚に頼んで、日本のお菓子(主にあられ)とゲッターロボの漫画を送ってもらいました。

この二点だけであっさりぼくは陥落。速攻でアメリカを捨てて帰ってきました(笑)。

その後、山口県下関市に住んで、最初はまともに日本語ができなかったのでちょっと外人扱いされて凹んだりしながらも、友達の愛の鞭(笑)を食らいながらなんとか日本社会に溶け込みました。

そのあとも親の都合で夏だけアメリカで生活(家のない、車で放浪する生活。マクドナルドの駐車場が宿泊所でした)、岩国の米軍基地の学校にたたき込まれる、などの仕打ちを受けた末に「ほたるの群れ」のモデルになっている山の中学校に無事入学。だいたいスタジオの男子メンバーはみんなこの時の同級生です。(女子とはこの時まだ仲良くする術を知らない素朴な田舎物だったので。)

中学二年の時に腎臓病になって、三ヶ月ほど休学。

そのあと、学校が好きなものだから無理して復学。

中三まではやり抜いたのですが、高校入学後、一日も通うことなく入院。そこから二年ぐらい病院を転々としてました。

しかし、けっきょく腎臓は悪化して19の時から現在に至るまで週三回透析を受けています。

そんなわけで思いっきり遅れて21で大検を取り、23から大学に入学。年齢がまったく違う同級生という阿坂(※「ほたるの群れ」の登場人物)の感覚はこの時のぼくのものです。

で、大学に入ったのはいいのですが、学校の勉強よりも出版社のバイトや翻訳のバイトに明け暮れ、大学で知り合った宮山をそそのかし、230万も借金をして「童話物語」を自費出版しました。

この「童話物語」が正式に幻冬舎から出版が決まり、以降は、だいたい皆様の知るところです。実際公式に発表されている向山貴彦とスタジオ・エトセトラの歴史は、ここから始まっている感じです。

〜原稿はここまで〜

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本日完結したTwitter連載「金網の向こう」は、ここにある岩国基地時代の出来事が描かれたものです。大切な友人であり、ビッグ・ファット・キャットのパートナーでもあるたかしまてつを氏の色鮮やかなイラストによって、私たちはその時間について知ることができました。でもwikiには、そのことは書かれていません。

情報は大切です。それが簡単に手に入るという文化そのものも、すばらしいものです。私自身、Wikipediaに様々な局面でお世話になっています。でも、そこにはとりこぼされたものもたくさんあります。

Wikiにはまた、向山が逝去した日付なども書かれています。——でも、このことは書かれていません。肉体がこの世を去った今でも、彼はまだ連載していること。周囲の協力を得て、今日まで「金網の向こう」を発表していたこと。

Wikipediaに、みなさんに、あらゆる人に伝えたい。向山貴彦は今も、現役の作家です。そしてたかさん、本当にありがとう。

Twitter連載「金網の向こう」はこちらからお読みいただけます。

https://twitter.com/i/events/1508365560978976768

ぼくの字が小さい理由

暑い日と寒い日が交互に押し寄せてきています。みなさまは体調いかがでしょうか。五月がもう三分の一過ぎている……と、思うと、なかなかドキドキするものがありますが、それでも今年もここまでやってきました。

がんばってますよ! 誰しもがんばりすぎなくらいですよ!!

そんなわけでたまには力を抜いて、向山コラムをお楽しみ下さい。リラックス大事です〜!

ぼくの字が小さい理由 文:向山貴彦

小学校一年の頃、ジャスコで三冊100円の落書き帳を買ってもらって、そこにマンガを書いて以来、なぜかジャスコのそのブランドの落書き帳しか買わなくなった。特に理由があったわけではない。ほかより使いやすかったとか、表紙が気に入った、とかそういったことではなかったと思う。敢えていうならすごくプレーンだったからだと思う。もう記憶が定かではないけれど、表紙にほとんど「らくがき帳」という文字以外、何もなかったような気がする。

小学校六年くらいになった時、永久にあるものだと思っていたその落書き帳が店頭から消えた。それどころか、その落書き帳を売っていた文具店がまるまる姿を消した。

母親は「あら、なくなっちゃったのね」くらいの反応だったが、当時のぼくには半生(約五年)の間あったものが突然消えたことのショックは計り知れなかった。そのあと永谷園の鮭茶漬けと梅茶漬けをうっかり買い間違えるほどのショックで、梅干しが嫌いだったぼくはさらに一週間、強制的に梅茶漬けを食べさせられることで危うくPTSDになりかけた。

その後、約一年ほどに渡って、らくがき帳難民となった。ジャスコで後釜に入った文具店のらくがき帳は何やら縦長で、生理的嫌悪感を覚えるほど嫌いで、近くのスーパーや文具店を毎日のように探し回った。どこかに同じらくがき帳が売ってないかと思って探し回ったが、販売自体が終わっているのか、ついぞ二度と同じ製品を見ることはなかった。

「なんでもいいじゃない。同じようなものでしょ」

大人にはそう言われた。ぼくもすでに小学校六年だったので、理性的な部分ではその言い分は分かっていた。でも、何かが違うのだ。何が違うのかうまく説明できないのだが、とにかく部屋の押し入れに数十冊積み上げたらくがき帳と同じものでないと、何か人生の大きなものが崩れるような気がして仕方がなかった。まだ初恋も知らないぼくには説明ができなかったのも無理はないのだが、ぼくはたぶんあの落書き帳に恋をしていたのだと思う。

さんざん親を困らせた末、中学に上がった頃、ぼくはあっさりルーズリーフという新たな恋の相手を見付けた。これもどうということはない。父親がルーズリーフをファイルに束ねているのを見て、なんとなくかっこいいと思っただけだ。特に横にはみ出しているカラーの仕分けタブが魅惑的だった。小説をタイトルごとにあのタブで分類したらなんとかっこいいだろう。これはらくがき帳ではできないことだった。

ルーズリーフはらくがき帳よりずっと高い。個別にビニールに入ってる。この辺りも中学に上がったばかりのぼくには大人っぽく思え、背伸び願望をかき立てられた。同級生にルーズリーフを使っているやつはいない。みんなノートだ。ルーズリーフはたいて大学生以上が使っていた。それだけでもなんとなくルーズリーフはかっこよかった。

しかし、ルーズリーフはぼくの経済状態を圧迫した。しかも、中学に入って小説を書く量が飛躍的に増えたので、買っても買ってもルーズリーフがなくなってしまう。お小遣いが底を尽きたぼくは、まともな中学生ならこんな場合、誰でもやるであろうたったひとつの方策に出た。

書く字を小さくした。

一行に200文字入れるつもりで、とにかく小さく文字を書いた。自分でも読むのがきついほどの小ささだったが、それがかえってかっこいい気がした。友達からは「米に書かれたお経」と言われたりしたが、それでもさらに研究を重ねて、十代後半では原稿用紙5枚分の文字をB5のルーズリーフ(中罫)に詰め込めるようになっていた。

これが先日「なんでそんなに字が小さいんですか?」と出版社で聞かれた時にぼくが答えたかった全解答なのだが、最初の「ジャスコで~」のところで遮られて、「データ下さい」って言われたので、代わりにここに書いておいた。

何が言いたいかというと、現在はロールバーンのリングノートを使っているということで、これはルーズリーフよりもさらにかっこいい。

ただ、ルーズリーフよりもさらに高く、ページも小さいので、いよいよ文字をさらに小さくする時が来たようだ。

結果:これくらいになりました。(ロルバーンはA5サイズのノートです。これでも字は大きい方)

ゴールデンウイーク日記

お久しぶりです。世間はゴールデンウイーク、みなさまいかがお過ごしでしょうか。私はといえば、お休みの使い方が下手というか、迷ってしまうタイプで、ちょっとおろおろしています。

自分でもケチくさいかな……と思うのですが、こういう大きなお休みはもったいなくて、始まるまではあまり考えないようにしているし(ちょっとでも嬉しい想像をして、もし来なかったら悲しい)、始まったら始まったで、ぐうたらするのに忙しすぎてのんびりできなかったり(矛盾すぎる)、昼過ぎまで寝ていて一日がすぐ終わるので後悔したり(だいたい取り戻そうと夜更かしして翌日また失敗する)……とにかく、何か最終日に悲しくならない使い方をしたくて、でもいちばん楽しい過ごし方は結局ダラダラ、「なにもしない」ことだったりして、複雑な思いを抱いたまま最終日まで駆け抜けてしまいます。

現在もそんな時期で、まだまだここからという気持ちもありつつ、いやいや、早く楽しまないと終わってしまう…!という強迫観念で切なく猫を撫でています(これだけは後悔しない)。じゃあ平日そんなに忙しいのかと聞かれたらそういうわけでもないのですが、世間の波にはできるだけ乗りたい。

そんなわけで、連休・個人的にこれだけはやっておきたいリストを作ってみました。

~やっておきたいリスト~

・家の掃除(さすがにもう限界)

・衣類の入れ替え(季節的に必須)

・銀魂の逃してる巻を買う(久しぶりにアニメを観たら面白かった)

・ガソリンを入れる(車検の時期です)

・猫のトイレ掃除(いわずもがな)

……なんかレベルが低いですが……あと、掃除のパーセンテージが高い……。でも、これくらいでいいんです。この辺が大体できたら、有意義な連休だったと自分に言うことができます。こんな風に、今から最終日に悲しくならない準備をしています。

と、思っていたら初っぱなから、気温差で衣類の入れ替えタイミングを見失ってしまいました。みなさんはどうか、楽しいゴールデンウイークでありますように……。

死語の世界

お待たせしました。数回ぶりの、向山過去コラムの時間です。

本日のテーマは「死語」。とはいえ、このコラムが書かれた時代からさらに死語化したものも増えました。つい最近流行ったばかりに思える「うっせぇわ」なども、若者にしてみたら「あーあったよね。けっこー前(っていっても去年とか)」の話みたいで、時の流れの速さが恐ろしいです。「ぴえん」とか「きゅんです」とかも、十代の間ではきっとそろそろ使用期限が切れてきているんだろうな…。こうなると、俄然「今北産業」とか「ぬるぽ」とかさりげなく使ってみたくなるのですが、いかがでしょうか。

ともかく移りゆく言葉の世界。温故知新を胸に、たまには古い言葉にも触れてみるのも、ありよりのありってことで、お願い申し上げます。

死後の世界 文:向山貴彦

先日、ティッシュのことを「ちり紙」と呼んで、若者に笑われた。一瞬、なぜそれがおかしいのかも分からなかったので、そろそろ本格的におじさんになって来ているのかもしれない。

どうしても音楽を買うところを「レコード屋」と呼んでしまったり、ごく希にだけどパソコンのことを「ワープロ」と呼んでしまう。ぼくにとってはそれほど違和感のないことだけど、きっと今の十代が聞いたら、ぼくの子供の頃に父が「映画」のことを「活動写真」と呼んでいたぐらいの衝撃なのだろう。

考えてみれば、今の十代は生まれた時からネットも携帯電話も液晶テレビもあったわけで、おそらく大半の人はカセットテープで音楽を聴いたことなどないだろう。ましてや、あの爆発する恒星のような一瞬の輝きと共に消えた「MD」という不遇なメディアなど目にしたことさえないはずだ。正直なところ、現実にその時代に若者をやっていたぼくでさえ、はっきり思い出せないので当然である。

気が付くと、言葉はあっという間に変わっている。小説を書いていると、時々その変化に驚かされることがある。ほんの数年前まで携帯電話は「開く」のが当たり前だった。描写する時にはまず「携帯をポケットから出して開かせる」ことが必要だったが、いつしか「携帯を開く」という動作に違和感が出てきている。それは自分も含めたぼくの周りの人がひとんどスマートフォンになったからだろう。うちの母親なんて初代iPhoneをぼくよりも先にゲットしている。

おそらくあと十年も立てば「携帯を開く」という文章を読んだ若者は、それが何をしているのか想像もつかなくなるだろう。あるいは「携帯」という単語そのものもすでに絶滅しているかもしれない。

かつてはチャンネルも、電話も、ドアノブも、みんな回すものだった。でも、最近はすべて押すものに変わっている。確かに押す方が動作がひとつ少ないので、楽と言えば楽だ。ラジカセのボタンが重い、明らかに何かを押し込んでいる感触のある物理的な再生ボタンから、「ピッ」という音だけの小さなボタンに変わった時にもずいぶんショックを受けた覚えがある。(「ラジカセ」が何か分からない十代のみなさんはお父さんお母さんに聞いてください。「ラジカセが何か知らないの!?」といううざったい驚きだけ我慢すれば、教えてもらえるはずです。)友達のところで初めて見たベータのビデオデッキは再生ボタンが名刺ぐらいの大きさで、両手を当てて力をかけないと押し込めないものだった。巻き戻しの機能はついていたが、あまりにも速度が遅いので、テープを取り出して、鉛筆を差し込んで、手で巻き戻した方が早いようなシロモノだった。

分かっている。今のパラグラフにも「ラジカセ」「ベータ」「シロモノ」というだいぶ死期の近づいた言葉が入っていることも。また、こういった言葉を親に何かと尋ねると、その度に「そんなことも知らないの?」と驚かれるのがうざいので、わざわざ十代のみなさんが尋ねないことも。

ぼくが「サッカリン」「大八車」「ミゼット」「チンチン電車」などを親に尋ねた時、三十五年前でも同じ反応だったので、気持ちは分かっているつもりだ。――ただ、これは決してバカにして驚いているわけではないのだ。みなさんにとっての三十年後というのは、ドラえもんが発明されるくらい未来だと思うが、四十代以上にとっての三十年前というのは、先週のちょっと前ぐらいなので、「ベータ」も「VHS」も「ワープロ」も「MD」も、なくなってしまったことがあまりに不思議なだけなのだ。(よく考えると、最後のやつだけはそんなに不思議でもない。)

それでもすべてが消えていくわけではないのかもしれない。今でも「チャンネル回して」とぼくはたまに言ってしまうが、それでも結構違和感なく通じてしまうこともある。「電話をかける」もおそらくは最初、受話器が壁にかかっていたからではないかと思うが、もう当たり前の動詞として定着したようだ。「暖房点けて」もおそらくは最初、マッチで火を点けていた動作が残っているのだと思う。「電話」という聞き慣れた単語でさえ、当初は「電信で話す」ということを縮めたものなのだろう。「電信」はさらに「電気の信号」という原始的な科学の基礎まで戻らないと、その生まれた過程が分からない。

遡っていくと、おそらくほとんどの言葉はそうして最初は見たままの形からつけられ、時代と共に余分なところがそぎ落とされ、言いやすく、愛された言葉のみが辞書に残っていくのだろう。

そのものは残っているのに、当初の呼び方が消えたものもある。「ホームページ」「マイコン」「オートバイ」などは出た当初に慌てて付けられたが、どうにも響きが悪く、使いにくいので、後に「サイト」「パソコン」「バイク」とかにさりげなくあらためられている。この例の最新ものになりそうな気がしているのが「スマートフォン」だ。このどう考えても間の抜けた名前が生き残るとが思えない。さらに省略形の「スマフォ」に至っては、言う度になんとなく腹から力が抜ける感じがする。非常に効きの悪い薬物のような名前だ。

どこかの会社がより良い名前を思いつくまではしばらくこの名前は小説の中では書くのを避けた方が良い気がしている。なぜなら十年後にこんな会話がどこかの家庭で交わされるところが目に浮かぶからだ。

子供「母ちゃん、このスマフォっていうの何? 外国製の靴か何か?」
母親「おや、そんなことも知らないのかい? 最近の子は何も知らないから――」
子供「うるせえな。もういいよ。それよりいい加減、そのMDっての捨てろよ」

ほたるの群れ・次回予告

どてら猫

童話物語 幻の旧バージョン

ほたるの群れ アニメPV絶賛公開中

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