「ひとりきりのイルミネーション」
夜中に目が覚めるようになったのはいつぐらいからだろうか。
子供の頃は目を閉じて、次に目を開けると朝だった。たまに何かの間違いで目が覚めた時は、夜の天井が怖くて、すぐに布団をかぶって寝た。何しろその頃住んでいた山口の実家は、電気を消すと、本当に真っ暗闇だった。窓からかすかに漏れ混む青色の月明かりを除くと、本当に光が何もなかった。寒い冬なんかにうっかり尿意で目覚めたりしたら最悪。寝ている部屋から台所を通って、トイレまでわずかに数メートルなのに、その真っ暗な部屋を横切って、トイレの明かりを付けるまでが怖くて仕方がなかった。闇は怖い。それはぼくがかなり早い段階で習ったことのひとつだった。
二十歳を過ぎた頃からだろうか。睡眠があまり得意でなくなった。夜中に何度も起きるのが当たり前になってしまって、一度起きるとそのまま眠れなくなることもしばしば。もう東京で一人暮らしを始めていたが、まだ闇は怖かった。今から考えると、これがかえって逆効果だったのかもしれないけれど、夜中に起きた時のことを考えて部屋の明かりを点けたまま眠るようになった。それも昼と変わらずに煌々と。起きても、ちっとも怖くない――そう思わないとよく眠れなかった。
結婚してからはやはり奥さんの手前、再び電気は消すようになった。最初に「電気消さないと」って言われた時にはもう十年ぐらい電気を点けて寝るのがあたりまえになっていたので、「そうだね」と言いながらも、内心は不安を感じていた。何しろ寝るのが苦手なぼくは、いつも寝られなかった時に備えて、本やら漫画やらパソコンやら、いろんなものをベッドサイドに持ち込んで、とにかく眠るまで「寝る」ことを意識しないようにしていた。徐々に眠気が強くなってくると、本を開いたまま気がつくと眠っている——そんな習慣が二十代ですっかり身についていた。
でも、久方ぶりに暗い中で横たわっていると、不思議と安心した。ぼくが覚えているよりもずっと、暗闇は優しかった。それからは毎日電気を消して寝る生活に戻ったけど、それでも相変わらず夜中に一度ぐらいは必ず目が覚める。そんな時、ノドが渇いていると、冷蔵庫に麦茶を取りにいく。寝室のドアを開けると、居間につながっている。もちろん、居間の電機も消えている。でも、真っ暗ではない。今は明かりがいっぱいあるのだ。
テレビの主電源の赤色。マルチタップコンセントのスイッチ三つ。加湿器の「おそうじ」ボタン(明日、洗わないと)。こたつの「切」スイッチのLED。ゲーム機のうっすらと光る青色。あした朝の厳しい冷え込みに備えてセットされているヒーターの「おはよう」タイマーの点滅。
まるで小さなプラネタリウムだ。どの機械も電源は消えている。でも、それぞれが存在を示すように小さな明かりを放ち続けている。
ぼくは暗闇の中で麦茶を持ったまま、しばらくその真夜中のイルミネーションを見守る。ぼくだけが知っている小さな光のショー。居間の闇を優しく変えてくれる生活の跡。二十代の時は、きっとまともな生活をしていなかったから、気がつかなかった光——。暗闇は相変わらず怖いけど、暗くないと見えないものも、この世界にはきっとたくさんある。